ボルネオ島の悲劇と情報収集

 私がかつて大使をしていたブルネイと言う国はアジアで一番大きなボルネオ島の北部の小さな国です。ボルネオというのは英語の名前で、インドネシアの呼び方であるとカリマンタンとなります。ボルネオ島は北の方の一部がマレーシアのサバ州とサラワク州で、南の大部分がインドネシアのカリマンタンです。ブルネイはサラワク州に囲まれた形になっています。赴任する前は、戦史おたくの私でも知らなかったのですが、ここボルネオ島の北部は、第2次世界大戦の時、日本軍将兵が沢山命を落とした戦場でもありました。それも半分以上は病気と飢えによって。この点で有名なガダルカナルとインパールにも匹敵するような悲劇でした。
 第2次大戦の初戦に日本軍がスマトラ島の石油基地パレンバンに落下傘部隊を派遣して急襲し、これを占拠したのは、「空の神兵」の歌でも有名ですが、ほぼ同時期ボルネオ島の北部、今のマレーシア領のミリやブルネイの石油を確保しようと、同様の落下傘部隊を含む部隊が急襲し、これを占拠したのです。それ以後、戦争の期間を通じて、この地は日本の占領下におかれたのですが、(必ずしも暴虐の占領でもなく、若き内務官僚の木村強県知事などの善政も今に伝えられていますが、すべて平穏であったかというとそうではなく、主として、華僑系や原住民系の住民との血塗られた抗争の悲劇も語り継がれています。)昭和20年を迎えるに至って、ついに米国とオーストラリア連合軍による奪還作戦が開始されます。その時、日本軍の守備兵力は約2万人で、主として一番の油田地帯であるミリからブルネイ、コタキナバルなどのボルネオ島北西部に展開していました。ところがどういうわけか、昭和20年初め、サイゴンにあった南方軍司令部は、部隊の大半をサンダカンなどボルネオ島東部に移動させる命令を発出します。ボルネオ島北西部と同じく石油基地でもあったボルネオ島の東部が攻撃目標であるとの情報によってであったようです。この移動は未だ米豪軍の制空権、制海権がそれほど完全でなかった時であったので、大部分の将兵は舟艇で移動できたわけであります。ところが、実際には、この情報とは違って米豪軍の主力はボルネオ島北西部に照準を合わせていました、それが判明したので、南方軍司令部は、今度は日本軍の北西部への一斉帰還を命じます。しかし、この時は既に制空権も制海権も完全に敵に握られていますから、将兵はもっぱら陸路で東部から北西部に移動することになったのです。今でこそ、例えばサンダカンからコタキナバルというと、それなりの道路は通じています。ボルネオ島を覆い尽くしていた熱帯雨林のジャングルも、開発によってかなり伐られて明るく乾燥した地域になっています。しかし、その当時は道路はなく、うっそうと繁る暗いジャングルの中には人が通れる道すらありません。私は蝶の採集のために、このようなジャングルに結構行っていましたが、それもかろうじて森林伐採の時に付けられた道や軍隊の訓練用の踏み分け道を見つけて、それを辿って入ったぐらいで、それらの道から少しでもそれて林内に分け入ると、すぐに迷いそうになるし、天を衝く高木に被われた林内は湿度100%、暗い林床は所々水が溜まっていて、足元はぬかるみ、ヒルと蚊の住処で、ハイキングや登山を楽しむ日本の山道とは全く異なるものでした。そのようなジャングルを何百キロも横切って移動せよというのが司令部の命令であったのです。何でも、南方軍の作戦参謀は、帝国陸軍兵士は優秀だから日に40キロは踏破できる。したがって、400キロ離れた東部から北西部までは10日で移動が可能であると言っていたそうです。なんたることか、きっとこのようなエリート軍人は、本当の熱帯雨林のジャングルになど入ったことはあろうはずもなく、同じ南方とは言え、おそらくはフランス統治時代以来開発が進んでいたサイゴンの快適な司令部の作戦室の机上で、このような作戦を立てていたのだろうということが心に浮かびます。日本軍は命令に絶対服従です。2万人の将兵は、目の前に立ちはだかる延々と続くジャングルに恐れおののきながら、命令に従ってジャングルの中に足を踏み入れて行ったものと思われます。その結果はあまりにも気の毒で、到底ここに書けません。豊田穣さんの「北ボルネオ死の転進」に詳しく書かれていますが、涙なしには読めません。結論を言えば、この行軍の結果、日本軍は、敵と戦う前から、ジャングルの中で飢えと病気のために1万人を失い、半分の兵力になったその日本軍に米豪軍が襲いかかったのです。それでも日本軍は善戦し、ために、激戦の地になったラブアン島には見渡す限りの米豪軍の戦死者の墓が出来ました。彼らは一人一人墓石に名を刻まれて埋葬されたのですが、それ以上に戦死者を出した日本軍戦没者の遺骨は慰霊塔に一括して祀られているのです。余談ですが、私はブルネイ大使時代、このボルネオ島の戦いのことを知るに及び、どうしてもこの激戦地にお参りしたくて、飛行機でブルネイからちょっとのラブワン島を訪れて、日本軍戦没者慰霊塔と英豪軍戦没者の共同墓地の両方にお参りして手を合わせて来ました。この二つの施設を除けばラブアン島は今やボルネオ有数の観光地です。また、和歌山県知事になってまもなく、このボルネオ島の死の転進の生き残りの方にお会いしました。捕虜になることは固く戒められていたけれど、その人はあまりの消耗により、たまたまジャングルの中に少しだけ通っていた道路に意識が朦朧になって彷徨い出て、そのまま気を失っていたところを米豪軍の捕虜になって命が助かったのだそうです。あの時もっと元気だったらジャングルの中で死んでいたと思いますと言っておられました。

 このボルネオ島の悲劇を知るにつけ、私は情報収集というものの重要性を思わずにはいられません。熱帯のジャングルの中はどうなっているのか、人が容易に通り抜けることが出来るものか、そのような知識なしにおそらく日本の山野の実態しか知らない人が立案したからこそ、部隊の半数がジャングルから出てくることなくその中に未だに白骨をさらしていると言う事態を招いたのです。
 現代は情報の時代だと誰もが口にします。しかし昔も同じように情報の時代であったはずです。本当の実態を知ることなしに、頭の中でだけ考えて大事な作戦を立案するようなことがあってはいけなかったのです。しかし、同じことは今の時代も繰り返されてはいないでしょうか。情報が大事といいながら、本当に実態を把握する情報収集を怠っているようなことが多いのではないかと、時々私は思います。実態がどうなっているか、一つの論理がどのように現実の世界の中で他と絡まり合っているか、気の毒だと思われている誰それは本当に深刻な状況なのか、誰が実際は泣いているのか、地域や産業の発展を阻害している真の原因は何か等々、我々がちゃんと頭に入れて行動しなければならないことは沢山あります。それを我々はSDGsに沿っているとか、環境に優しいだとか、人権尊重だとか美辞麗句を唱えるだけで、見逃しているのではないか。そのようによく思います。情報は飾りではありません。いい格好の道具ではありません。真の情報は地べたを這い回りながら取ってくるものです。
 とりわけ行政は、正しい情報把握の基に行動に移さないと、効果的な成果は得られません。行政官が、住民や産業界の人はこうやれば評価してくれるはずだ、効果が出るはずだと思って行動しても、基になる実態や関係者の意向、利害関係などの情報把握が間違っていると、よくて効果の無い無駄行政になるし、ひょっとしたら間違った、あるいは逆の効果を生む行政をやってしまう恐れもあります。
 したがって、私は、和歌山県で行政の責任者をしていたときは、特にこの的確なあるいは正しい情報収集をどうすれば出来るのかと言うことを常に考えていました。私は、答は二つだと思います。
 一つは、対象を徹底的に勉強して、分からなければ人に聞いて確かめると言うことです。どこかで仕入れたあんちょこの知識だけでは道を誤ります。私は通産省に入省したとき、生活産業局という沢山の業界を抱えた局に配属されました。なんと言っても一年生の見習いですから、国会対応などで夜は遅いのですが、常に忙しく何かをしているわけではありませんので、暇はあります。そこで、当時東洋経済から出ていた○○産業の実際知識という本を片端から買ってきて読みました。その結果沢山ある所管業種の色んな知識が身について仕事が段々と面白くなってきました。未だにこの中のなにがしかのことは頭の片隅に残っています。ずっと後になって地球環境問題を担当したとき、有名な環境省の研究所の人が、社会全体のエネルギー消費を落とすために、セメントはエネルギーを多用するポルトラントセメントからスラグセメントに切り替えると、CO₂排出量ははこんなに減るので、それを前提に戦略を立てようと言っているのを聞いて、こんな人が政策立案のアドバイザーをしているようでは日本も救われないなあと思いました。確かに、鉄を作った後に出来るスラグセメントは、あらためて焼結工程を要しないので、CO₂削減にはなるのですが、ポルトランセメントが使われる用途には性能上使えないと言うことを知らないのです。ボルネオのジャングルを日本の山野と同じようなものと考えた南方軍司令部の作戦参謀と同じです。
 二つ目は足で稼ぎ、耳で仕入れることです。行政官はその客体である民間の人と違う仕事をしているわけですから、民間の実態が分かっていない場合もあります。論理だけで思い込みがちなところがあります。産業政策などは特にそうで、産業界の人は何を考えているか、どういう不満があり、どうして欲しいのか、どういう未来を構想していて、行政に何を期待しているのか、そういうことは役所でいくら机に向かっていても的確には捉えられません。現実に生の経済の現場に行かせてもらって実態を勉強し、人に会って話を聞いてこないといけないのです。サイゴンの司令部から離れて、ボルネオのジャングルを見て、現場で必死に戦っている将兵の息づかいを感じ取らなければならないのです。
 ただ、知事を経験してみて、それは現実の都道府県の行政ではとても難しいということが分かりました。なぜならば、県の組織は、ほとんど例外なく政策手段別に編成されていて、何か問題が起こったときや民間から要請があった時は、その政策手段を発動できるけれど、その立場はいつも受け身であって、積極的にこの政策手段を使って何かを始めようというメカニズムになっていないからです。問題がいつ起こりそうだとか、問題はこうだから用意しておくべき政策手段はこうしようとか、そのようなことが考えられる構造になっていないのです。なぜなってないかというと、そのための情報が無いからです。情報は取りに行かなければ届けてはくれません。私が昔所属していた時の通産省は、政策手段を持っている横割り局と、産業を丸ごと所管している縦割り局があって、両者が協力することによって政策を展開していくことになっていました。その縦割り局の仕事は、所管の業界でどういう問題が起こっていて、人々は何を考えているかをきちんと把握して、その上でどうすればそれが解決できるかと言うことを考えることでありました。したがって、その行政姿勢は、待ちではなく、積極的に情報を取りに行かなければならないということです。私自身の例によれば、このような情報収集が機能したのは、私が情報処理振興課の課長補佐をしていたとき、未だ、黎明期の情報処理産業の経営者や識者を片端から訪ねて、その議論の中から通信回線開放の必要性をあぶり出して、通産省の大政策、というより国民運動に仕立てたときでした。情報処理は新しい分野ですから、文献を読んだり、研究をしたりすることがついつい楽しくなるのですが、むしろ私は出来るだけ多くの方と知り合いになって、業界の実態と、産業界の考える未来をきちんと情報収集することを主眼としていました。詳しくは述べませんが、当時の情報処理産業界にも主流の企業群と仲間はずれ的な企業がありました。私はどんな企業でも発展している企業にはそれなりの意味があると思っていましたから、主流の企業ばかりでなく、仲間はずれの企業にも訪問させて頂き、議論させて頂きました。そんな会社の一つが故大川功さんが一代で急成長させたCSKで、新宿のオフィスに伺った私に、大川さんは「通産省の人が来てくれたのは平松さん(日本の電子政策のいわば創始者の元電子政策課長、のち大分県知事)以来だ」と言っておられました。私のちょっとした自慢たれです。
 このような経験からすれば、県庁も、県の産業界の実態をちゃんと掴んで、問題点を進んで理解し、その解決方法を業界の方々と一緒に考えることが出来るようにならないと、よい行政は出来ないと私は思いました。しかし、構造的には先述のような問題がある。そこで、考え出したのが、業種別、企業別担当者制度でした。いわば、県庁の中にかつての通産省の業界担当局を作ったのです。ただし、県庁の組織は小さいし、職員の数も限られているので、通産省のように専任の業界担当部署や担当者を置くわけにはいきません。そこで、元々政策手段を担当している職員に業種と企業の担当を割り当て、その職員は担当の企業といつもコミュニケーションを取って、様々な議論をして、行政に必要な情報を進んで手に入れてくる役割を与えたのです。そして、業界の方々が何でこの県庁職員はうちの会社に足繁く来るのかといぶかしく思わないように、毎年人事異動があるたびに業種別担当者名を公表していました。かくして県庁の業種別、企業別担当者は、元々の政策手段のおもり役という役目に加えて、このような情報収集役というダブルミッションを抱えて奮闘してくれるようになりました。といっても、もとより情報収集はそう容易ではありません。進んで情報を取るためには、特別の用事も無いのに企業や要人をお訪ねしないといけないのですが、これはそうそう簡単なことではありません。でも、恥ずかしさや居心地の悪さを我慢して企業を訪れ、話が弾んで、企業人が自分でも見つけていなかった問題点やその解を見つけたときの喜びはとても大きいものがあります。また、それによって得られる企業人からの信頼は人生の励みになるでしょう。すべての担当者がはじめからそういい成果を上げることは期待できなくても、まあやってみよう、ひょっとしたら、成功例が出て、それが新しい県庁のロールモデルになるかも知れないではないかというのが私の考えでした。サイゴンの司令部の机に座って頭で考えているだけではなく、誰かが提案をしてきたり、要望をしてきたりするのを、ただ査定したり裁いているだけではなく、進んで前線に出て将兵の苦労を体験して、自然や住民の動向といった環境も体感してくる、それが正しい情報の上に立脚した行政と言えるのではないか、と私は思っています。
 実は、このような試みは大分県にもあると言うことを、後々になってから発見しました。大分県の知事は当時広瀬勝貞さんで、経産次官もされた、私に取っては心から尊敬する先輩です。このことについてお聞きしたことはありませんが、おそらく私と同じように従来の県行政の持つ「待ちの姿勢」に飽き足らず、攻めの行政を県庁をあげて行うために工夫されたのではないかと私は思っています。情報を制するものは世界を制するといわれますが、その情報とは、このように熱心なスタッフが汗と誠意で稼いできたものではないかと私は思います。

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