ノーブリス・オブリージュ

 ノーブリス・オブリージュ(noblesse oblige)という言葉があります。高い身分に伴う義務という風に辞書には書いてあります。言葉は多分フランス語ですが、英国の騎士道、紳士の道徳としてよく言われる言葉です。
 少年時代に何かの本で学んだ時、その実例として次のようなことが述べられていました。

 第一次世界大戦の激戦で英仏軍も独軍も大勢の戦死者を出しましたが、英国においては、圧倒的に将校の戦死者が多かったそうです。当時の英国は階級の差、それから来る貧富の差も大きく、貴族階級や上層市民層は多くの特権に守られ、本来の才能以上に有力な地位に就きやすい環境にあったと思います。しかし、彼らは、小さい頃から、上層階級の子弟の持たなければならない気概と義務感をたたき込まれて育っていて、その端的な場は国家に一旦急あるときは進んで国を守らなければならないということでした。戦争に際しては、上層階級出身者は将校になり、下層階級出身者からなる兵を率いなければなりません。そして、危地にある時こそ、真っ先に突進して戦死者を多く出したというのです。
 読書少年であった私は、このことに強く影響されて育ちました。率直に言うと、比較的恵まれた家庭で育った私は、自分は親のおかげで何の支障もなく大学に行かせてもらえるんだから、少なくともそれが中々かなえられなかった人々からも後ろ指をさされないような学生でいなければいけないとずっと感じていたし、国家公務員として職業生活に入った時も強くそれを意識することになりました。
 というのは、歯に衣を着せずに言えば、国家公務員の世界は、あからさまな「階級制」社会だったのです。私が入省した通産省ももちろんそうですが、良い悪いは別にして上級職で入った我々は、他のクラスの人々の分まで働け、責任はその人達の分まで全部背負えという考えをたたき込まれました。上級職の人達は、えらいスピードで地位が上がり、あっという間に年上の初中級職の人達の上司になるのですが、その代わり、ポスト的には課の中の「総括」という地位にすわって初中級職の人達が仮に仕事をうまくこなせなければ全部肩代わりし、対外的にはすべての責任を負い、他の人達が早く退庁しても、仕事が終わるまでは、いつまでも自分たちだけが残って仕事を仕上げてしまうという案配です。この傾向は、特に通産省に強かったと思います。
 これに対して大蔵省などは、初中級職の人々もうまく使って省全体で機能を高めているのに、通産省は、上級職だけがいきがって少数で仕事をし、その結果全体のパフォーマンスが上がらずに、体まで壊す人が続出している、これではいかんということで、私が役人生活の最後を過ごす頃、改革が行われました。
 初中級職の人達にも昇進の機会を拡大し、課の中で上級職の人達が他の課員の仕事を全部カバーしていた「総括」という役割をなくし、皆が独立してそれぞれの仕事に責任を持つようにしたのです。私は、この改革は初中級職の有能な人々にチャンスを大いに与えたことなど良い点もたくさんあったと思うのですが、上記のいわゆる「階級制」を温存したままの改革であったため、やはり中途半端な効果しか出さなかったと思っています。逆に、上級職で入って昇進スピードなどの速い特権を持ちながら、他の人々のカバーを十分にしようとせず、人は人、自分は自分という考えを持った人を生産してしまう欠点があるように思います。これでは、特権に伴う義務を十分に果たしていなくて、ずるいように思うのです。ノーブリス・オブリージュに反します。
 和歌山県のシステムには、こういう「階級制」はありません、実力で昇進する権利を誰でも平等に与えられています。

 しかし、そうして昇進したからには、部下の責任まで背負うノーブリス・オブリージュの義務が幹部にはかかってきます。部下の失敗は自分の責任です。いざとなったら逃げる上司は一番軽蔑されるでしょう。
 そして、一番これを免れないのが知事である私です。
 少年時代以来、これだけは人に恥ずかしいことだけはしまいと心にずっと思い続けてきた私ですから、いやしくも、責任を避けて逃げているではないかと思われることがないように頑張りたいと思います。違うじゃないかと皆さんが思われたら、遠慮なく指弾して下さい。