パンダ空港と増井光子さん

先日の新聞で動物学者で元上野動物園の園長であった増井光子さんがロンドンで客死されたとの報に接しました。70才を過 ぎてもますますお元気で、英国の乗馬の大会に出かけておられた時の落馬事故が原因であったと報じられています。白浜のアドベンチャーワールドにおけるパン ダの繁殖実験が大いに成功し、わがアドベンチャーワールドには、パンダが6頭もいます。中国にここで生まれたパンダを随分お返ししているにもかかわらずです。そのパンダを思うにつけ増井さんを思い出します。和歌山の成功をいつか直接報告して語り合いたいと思っておりましたが残念です。

話は、今から約20年前の通商産業省の貿易局輸入課に遡ります。当時私は輸入課長でした。イタリアから帰ったばかりで、 初めての課長でしたので張り切っていました。輸入課の仕事の1つに稀少野生動植物の保護に関するワシントン条約の運用がありました。実施運用のための国内 法規制の権限を私が持っていたのです。ワシントン条約では、稀少野生動植物を非常に生存が脅かされているⅠ種と、かなり危ないⅡ種に分けていまして、それ ぞれ輸出入をコントロールしています。パンダはもちろんⅠ種ですから、商業的取引は禁止です。ただし動物園への移管は、この商業的取引に当たらないという のが慣例でした。

そこへ、アドベンチャーワールドから中国と繁殖実験の協力をするので、パンダの輸入を認めてほしいという申請がなされた のです。何しろ世界的関心の高いパンダですから、賛成反対それぞれにものすごいボルテージが高まりました。反対派は、パンダのような野生動物は、野生のま ま置いておくべきで、動物園のような所で飼うべきではないという考えです。特に日本のWWF(世界野生生物基金(現在の世界自然保護基金))のオピニオン リーダーと称する一部の学者さんや熱心な運動家は大変な剣幕で、私の所に絶対許可するなと言ってこられました。一方、動物園の方々は、それを聞いて烈火の 如く怒って、動物園のことを何と思っているか、野生のまま放置して種が絶滅したらどうするのだと言って、これまた私の所へ大勢の方が押しかけてこられまし た。その中に増井光子さんがおられました。増井さんは、パンダを中国が日本に初めてくれた時からパンダの養育にかかわってこられた人で見識も深く、当時の 中国の事情など極めてよく分かっておられました。増井さんは、鶴のようにやせておられますが、気力横溢、輸入反対派の論拠を激しく論破して行かれるので す。当時の中国は、まだ天安門の混乱もさめやらぬ時で、今のように経済力もなく、中国と協力して、中国側に援助をしなければ、中国ではパンダにやる食料も 十分調達できない状態だと言うのです。こういうことも理解しないで、訳も分からず無責任にきれい事ばかり並べ立て、パンダの種の保存とその保護のために必 死でがんばろうとしている人々に反対するのは許せないと力説されました。こうして対立は根深く、あまり性急に結論を出してしまうと、問題が社会問題化しマ スコミの標的になる恐れがありました。
時の大臣からは、早く許可を降ろせないのかと御下問が何度もありましたが、その都度、十分議論を闘わせた後でないと、よからぬことが起きて大臣にも御迷惑をおかけしますと言って待ってもらって、議論を尽くすことにしました。
双方から言い分を何度も聞きました。日本WWFの最高幹部からは、WWFの組織全体が反対ではないとの内意ももらいました。熱心な反対論者とは夜を徹し て話し合いました。スイスにあるワシントン条約事務局にも意見照会をしましたが、YESともNOとも確たる意思表示はされませんでした。その中で、当時、 まだ当時の私と同じように青年であったアドベンチャーワールドの飼育部長の林さんたちのお話もお聞きました。若い方々が情熱を持ってこの事業に取り組もう としておられるのがよく分かりました。こんな人たちにまかせるとうまくいくのだろうなと思いました。そして、双方の意見が出尽くした時に、従来の解釈通 り、本件にYESの決定を出しました。決定を出した時は、反対の方々も、もう言うべきことは皆言って、それでもそれが決定的ではないということが分かって いたからでしょうか、もはや一言も異論を言いませんでした。後から考えると、もともとYESの答を出すべき案件だったとは思いますが、その背を押してくれ たのは、増井さんの意見と林さんたち若い飼育員の方々の情熱でした。

そして20年、林さんたち若い研究者は実験を成功させ、アドベンチャーワールドに中国本土を除いて世界一のパンダ王国を 作り上げました。そして、その中で若い飼育員の方々を次々と育てられ、今では若い人たちが続々と参加をしてくれています。知事になって和歌山へ帰ってきた 時、多くのパンダとすっかり白髪が増えた林さんや彼の若い仲間にお会いして感無量でありました。あの時まいた種がこうして育っていると嬉しく思っていま す。
しかし、現場の人たちがパンダを育ててきた苦労に比べ、行政をはじめ、私たち和歌山県がそれをアピールして、日本中の耳目を和歌山に集める努力を十分し てきたかというとどうでしょうか。もっと多くの観光客を集められたのではないでしょうか。私も知事に就任以来、必死で「パンダ、パンダ」と言いまくってき ましたが、それでも例えば東京ではこんなに多くのパンダが白浜にいることをまだ知らない人がたくさんいます。さらにアピールする努力をしなければなりませ ん。
その1つが南紀白浜空港の愛称を南紀白浜パンダ空港とすることです。増井光子さんの霊に祈りを捧げつつ、多くの感慨にとらわれました。