「永遠の0(ゼロ)」に思う(続)

 百田尚樹さんの「永遠の0(ゼロ)」の続きです。その中で県政遂行上、特に心を引き締めなければならぬという事をいくつか感じましたので申し述べます。

 一つは、指導者が心得なければならぬ事。行くか、退くかすべてに勇気を持つこと。総合力で勝負しなければならぬこと。そのためには客観的な情勢を徹底的に調べなければならぬこと。そうでないと職員にただ働けと言って疲弊させるだけになります。

 二つ目は、トップも職員も皆が心得なければならぬことで一つ。それは、消耗したらいい仕事ができない事です。小説ではラバウルから長駆ガダルカナルに進攻した歴戦のゼロ戦乗りも、連日のしかも何百キロという長距離の飛行の末の戦闘に段々と疲弊してきて力が出なくなり、次々と失われていく事が切々と描かれています。
 ほどほどに寝て、時々は遊ばないと、頭と体が悪くなります。職員の皆さんは使命感が旺盛だから、特にこれは大事だ大変だという仕事が向かってきたら、倒れるまで働いてしまう懸念が私にはあります。

 それは、私がそうであったからです。
1983年1月、私は米国のフロリダ州キービスケインで開かれた第1回四極貿易大臣会合の日本代表団のメンバーでした。これは通商産業省にとっては歴史的な出来事だったのです。それまでは、通産省は経済貿易面で経済の自由化と輸出促進を進める事に邁進し、無敵の日本経済を作り上げる事に一役買い(私は正直言うと一役しか買っていないと思っています。)その後大問題となった貿易摩擦に対して、盾となって世界と戦ってきたのですが、実は、国際会議を独立でマネージした経験もなく、そのノウハウも実力もなかったのです。
会議のアレンジなどはすべて外務省に頼って、その中で役者として行動していたにすぎなかったのです。
 そういう中で、当時のブロック米通商代表部(USTR)代表からUSTRと通産省とEC委員会で(後でカナダ貿易省も参加)貿易問題を議論する四極貿易大臣会合をやろうよという誘いがありました。これに通産省は乗ったのです。
 外交交渉は案件をどうしようか。どうやって相手を説得しようかというサブスタンスと、そのために会議をどう運営し、サポートをどうやって、運輸、ホテル、食事などいわゆる兵站をどううまくやるかというロジスティックからなっていますが、通産省はこの時を以って、サブはもちろん、これまで外務省に頼っていたロジを自力でやろうとし始めたのです。もちろん、外務省は面白くありませんから、色々ともめ事も起こりますので、これをうまく処理するという仕事も加わります。私は当時通商政策局の総務課調整班長という政策担当の課長補佐、多少の気負いもあったと思いますが、自分では昔の大本営作戦参謀のような気分で仕事をしていたのです。
 四極貿易大臣会合の準備は局内の国際経済課に任されましたが、何せ初めての経験ばかりで、うまく進みません。関係する米州大洋州課とか欧州課とかからも、これではむちゃくちゃになるぞと苦情がいっぱい来ます。確かに様子を見に行っても、「戦時」なのに「平時」モードで仕事をしているのです。あれこれ「大本営」から指令を発しても中々はかどりません。会議の期日も迫ってきます。そこで、ついに私は国際経済課に乗り込んで、自分で準備をやり始めました。それで準備が整い、実際に担当した人として私は代表団の末席で現地について行きました。
 時の通産大臣は現在の安倍総理の父上の安倍晋太郎さん。力を入れている国際会議ですから、大臣の下に通商産業審議官、通商政策局長、同次長、国際経済部長、国際経済課長と勢揃いで、その下に課長未満の下は私一人という布陣でした。会場は、ゴルフ場の中にホテルやコテージが散在するリゾートで、会議場、日本代表団本部、そして自分が寝る部屋のあるホテルと、それぞれ結構距離があるのです。他に米州大洋州課長とその課長補佐というコンビが行きましたが、この二人は、安倍大臣がこの会議の後ワシントンへ行ってレーガン大統領などと会談するので、その準備に専心していました。
 その中で、私は、二日間一睡も出来ず、仕事を続けました。(その後のワシントンでも一睡も出来なかったら丸3日ですね)、何せ日本にいると大勢いる作業員が私一人しかいないところへもってきて、現地での事前打ち合わせで、大臣の発言要領がコロコロ変わり、せっかくきちんと準備して持って来た資料を全部作り直さないといけないはめに何度もなったのです。数人の現地駐在通産省勢が助けてくれるのですが、皆私より先輩で、切り貼り(当時はワープロもなく)からコピー取りまで全部一人でやらざるを得ず、会議中は必死で議事録を録り、それをまとめて、上司の了解を取った上、大勢付いてきて早く情報をよこせと大騒ぎとしているプレスの方々と会見をアレンジして上司のスポークスマンを連れて行かなければなりません。まったく眠る暇などありません。よく何とかなったなあと思います。ワシントンでは、現地勢がより使えたので少しはましだったのですが、それでも大仕事ですから仕事はいっぱいあって、結局3日3晩眠れず、次の目的地ニューヨークに着いたのですが、そこで現地駐在通産省の先輩と話をしていても、我ながらろれつが回らず、どうも頭の回転が鈍いのです。これではいけません。(実は、この印象を持った先輩から本省に「あいつはおかしいぞ」という説が流れ、皆が心配してくれていて、私がその後大臣一行と別れ、通商産業審議官のお供で回ってきたヨーロッパから帰ると上司の第一声が「お前大丈夫か」だったのですが、私は、ニューヨークからヨーロッパに行く飛行機の中では眠りっぱなし、ヨーロッパでは現地駐在の人々に大事にされて王侯の暮らしで、休養はたっぷり取って元気満々で帰って来たので、「え?何の事ですか?」というのが、その時の返事でした。

 人間は疲れると良い仕事は出来ないのです。それ以上に健康や命まで危なくなります。行政の対象である県民に良い事をしてなんぼなのですから、そのためにも自分が疲弊をしてはいけません。でも使命感が強いとどうしても無理をしてしまいます。
 その事が現実になったのが、2年前の台風12号の時の出来事でした。自分も一員だから言うのは恥ずかしいけれど、県庁の対応は本当に立派で、英雄がたくさん現れました。
 しかし、私は、前述のような経験があるので、交替で帰れと命令して、自分も疲れすぎると頭も体も働かなくなるのである程度の所で帰って寝させてもらいました。しかし、熱心な諸君はそうしなかったようです。後で調べると、残業が月300時間を超える人まで出ました。これは絶対に持ちません。幸い、県庁「大本営」の司令と活動に大きな失敗もなく、職員も致命的な体調不良になる人も無くてすんだのですが、それで、よかったと言うわけにはいきません。
 
 私は、特に幹部には、「次からは、気を付けろ、無理に命令しないと、立派な職員は働き続けていずれ役に立たなくなるぞ。それにはテクニックも大事だから三人で一組になって、二人働いているうちに一人は完全に家で休んで、引継ぎをした後次の一人が帰る事にせよ」というような指令を出していますが、どうでしょうか。また、今回あらかじめ組織化した「災害時緊急機動支援隊」は現地に向かう10人のチームが1週間単位で4チームが交替することになっていて、持ってきてくれた原案を見た時は、今度は「継戦能力」を考えてくれているなあと思いました。職員の皆さんも、細かいところは自分たちで工夫して、いかにして継戦能力を高めるかを、日頃から心がけてほしいと思います。自分のためばかりでなく県民のために是非よろしくお願いしたいと思います。

 先ほどの私自身の経験には後日談があります。このキービスケインの「あいつはおかしいぞ」説を教訓に、通産省はロジの体制、システムを、主として外務省に習い大いに改善しました。大臣級が動くミッションの場合、サブスタンス担当の幹部に加え、そのサポート役として課長未満の人数人、ロジに責任を持つ人数人、プレス対応に当たる人1~2人を必ず随行させる事にしたのです。ちょっと大がかりすぎるなという気が「昔の人」私には思える事がありますが、職員が疲弊して機能不全になるよりはましだろうと思います。