日本経済新聞「こころの玉手箱」について

 日本経済新聞から依頼がありましたので、僭越ながら夕刊の「こころの玉手箱」の欄に、5月12日から16日まで私の周辺の色々な事を書いて載せてもらいました。担当の部長さんのお話では、ペラペラ喋ると、それを取材した日経新聞の方が書いて下さるというケースが多いと言う事でしたが、趣旨と違う事を書かれてもいやなので、まずテーマについて日経新聞のご了承を得た後、原案は自分で書きました。字数制限の関係で中々大変だったのですが、精一杯努力をして原案を作りました。そうしたら、やはり、編集者の専門的意見というのがあって、どうしたら受けるかという観点から直しが入り、字数も随分削られました。読んでいただいた人も多いかもしれませんが、直しが入る前の生原稿を後援会HPにアップしておきます。

《 昆虫採集 》
 写真はボルネオ特産のシジミチョウ Sukidion inores (Hewitson 1872)の写真です。大変な珍稀種で、標本は世界に多分10頭前後しかないと思います。それを私はブルネイのジャングルで3雄も採ってしまったのです。私は子供の頃から昆虫採集に親しんでいます。大抵の昔の男の子は昆虫採集などやった経験はあると思うのですが、多くの人は、長ずるに及び、学問に、仕事に、はたまたスポーツに、さらには恋に、子育てにとこれをやめてしまうのです。しかし、中には例外的にしぶとく続ける人がいます。私はどうもその1人のようです。昆虫採集の魅力は何でしょうか。昆虫はまず美しい。次に自然に親しめ、山登りなど運動にもなる。各地の採集地に行くことで、世界中の文物に接する、平たく言うと旅行ができる。収集癖が満足できる。さらには、博物学の一端がかじれてアカデミックな雰囲気が味わえる。こういう事は後付けの理由で、とにかく大の大人が夢中になって熱中しているのです。
 暇があった学生時代は天国でした。散々あちこちに採集旅行に行きましたが、役所に入ると仕事が忙しく中々採集もままなりません。それでも今に至るまで、ようやく自由になった深夜などに標本の整理や同定などをしているのです。毎年春になると、今年はどこへ何を採集に行こうかなとウキウキしています。ただ1つの問題は、どうしても採集は殺生を伴うことで、この世界の究極の形は生態写真家に転向する事だと思いますが、こちらは採集よりはるかにレベルが高く、まだ成し得ていません。
 長く通産省にいますと、海外での仕事も経験させてもらえます。私は40才前後にイタリアのミラノにJETROの駐在員として、そして、役人生活の最後にブルネイ駐在大使として外国経験をさせてもらいました。もちろん仕事は結構きつく、その時々に熱心に取り組まなければならない案件は多々あるのですが、私は暇が許す限りその地の蝶の採集に出かけました。ミラノの北はヨーロッパアルプス、他のヨーロッパの産地へも車で一息です。ブルネイは熱帯のジャングルの国。それぞれ大いに頑張りました。こうしてネットを持って各地を旅していますと、単なる旅行者よりもはるかに多くの事、すなわちその地の自然や習俗や人々の営みや人情など様々な事が鮮烈に記憶に残ります。
 ブルネイでは、一種の「調査研究ナショナリズム」のようなものがあるなと気付いたので、自ら許可を得てブルネイの「リサーチャー」になり、採集調査記録と標本の半分を現地の博物館や大学に寄贈してきました。それがまた現地マスコミに取り上げられ、「仁坂大使はバタフライ ディプロマシーをやっている」と同僚大使達に言われたものでした。帰国後8年、あまりに忙しい日々のため、県内の山にたまに採集に行くのがせいぜいになっていますが、一念発起、この春から「ブルネイの蝶」を専門雑誌に連載する予定です。

《 大水害からの復旧 》
 2011年9月3日から4日にかけて、私の住む和歌山県は、特に南部を中心に台風12号による大水害に見舞われました。もともと多雨の地なのですが、その年間降水量の半年分が3~4日間で降ってしまい、死者・行方不明者61名、県内で孤立集落が発生し、床上浸水以上の被害家屋約5,000戸という大変な被害でした。この悲報に接した際、思わず体が地面にめり込んでしまうような気分に襲われましたが、県民の命を救い、復旧を急いで、生活を立て直す責任を果たす責を負う者は自分しかいないと気を取り直し、あらゆる事を能う限り猛烈なスピードで手がけていきました。東日本大震災のあの惨事から半年、岩手県の救援に出向いた結果得た被災地の悲惨な状況と対策の中味に関する知識が大いに生きました。国や関係事業者などあらゆる機関に県の災害対策本部に集まってもらって、「とにかく急いで」ということを合言葉に、救援と復旧・復興に力を合わせました。県の仕事、市町村の仕事と言っている場合ではありませんから、比較的被害の少ない県の職員がどんどん市町村の仕事を引き受けるように取り計らいました。建設業、産業廃棄物業などの方々が円滑に協力していただけるように制度的な制約はどんどん取り払いました。国にも最大限協力してもらいました。今から考えると冷や汗ものですが、他の組織のトップや職員をつかまえて怒声を発したこともあります。その結果、奇跡的なスピードで復旧が進み、まもなく人々が旧来の生活ができるようになりました。写真は、紀伊半島大水害に対して和歌山県かく闘えりという記録です。私は、この中に、私の下で死力を振り絞ってくれた職員達の闘いの記録を自ら筆を執って書き残しました。
 こうして大水害からは立ち直った和歌山県ですが、長い間少しずつ県勢が衰え、その他の課題も山積です。前知事の汚職辞任の後を受けて、生まれ故郷の和歌山県知事に就任したのが、2006年。新知事の私の前にあったのが、自分の子供の頃からその時までの長期的成長率が全県中最下位、財政もパンク寸前、インフラ整備も全国で最も遅れているという現実でした。汚職の原因となった官製談合に代わる新公共調達制度を作り、産業振興策を整備し、医療の崩壊を防ぎ、と手がけなければならない仕事はいっぱいでした。しかし、生まれ故郷のことです。その舵取り役をやらせてもらえるなんて幸せな事だと思わなければなりません。そう思って毎日毎日全力投球の結果が7年余になりました。まだまだ難問は続きます。来たるべき南海トラフの大地震と津波にも備えなければなりません。来年は紀の国わかやま国体です。やらなければならないことはいっぱいあります。

《 「白球会」新人賞のトロフィー 》
 経済産業省(当時通商産業省)のテニスクラブ「白球会」でいただいた小さなトロフィーです。白球会というのは文字通りの白い球に給料が安いという薄給を兼ねた名前だそうです。まだ20代でしたので、将来伸びるという期待を込めて「未来賞」だったのですが、結局腕前は上がらず、未完の「小器」のまま終わりました。それでもOBを含め先輩から後輩まで和気藹々としたこのクラブにすっかりなじみ、熱心な会員の一人として世話役などもやらせてもらいました。主として企業からなる複数の対戦相手が決まっていて毎年1回の対戦と試合の後の懇親を楽しみにするのです。相手チームは元デ杯(デビスカップ)選手といった名選手が含まれていたりするのですが、元はそうでもなかった味方も毎年熱心に続けているとそれなりに技量が接近し、ダブルスの組み合わせを幹事がうまくやると結構良い試合になったりするのです。皆家族連れで集まるので、私もよく家内と一緒に参加しましたが、家内はよく拾ってはロブで返すの連続で相手のミスを誘い、サイドを抜こうとしてミスばかりする私よりもはるかに好成績でした。こうして下手は下手なりにずっとテニスを楽しみ、その後赴任したブルネイ大使時代には、暑い国のことですから、ナイター設備のある友達の家のコートに集まって社交を楽しんでいましたが、現職になってからは暇が全くなくなり、休眠状態になってしまったのは残念です。

 実は私の父は、繊維の中小企業の経営者でしたが、全盛期の慶應義塾大学の庭球部、小泉信三部長の下でマネージャーを務めた、テニス一筋の青春時代を送った人でした。和歌山県の庭球協会のリーダーもしていましたし、昔の仲間の刺激もあったのでしょうか、息子である私をテニスの名選手にする事が夢だったようです。しかし、もともと運動神経も大したこともない上に、親があんまりやいやい言うと子どもは反抗するもので、私はテニスから逃げ回り、アットホームな和歌山大学附属の小中学校でのんびりと育ち、次には一転マンモス校の県立桐蔭高校でもまれて、色々と多岐にわたる経験が出来た楽しい少年時代を送りました。テニスに加えて、自分の進路についても、親の後を継ぐのなど嫌だと、自分がこれが自分の使命だと決めた経済官僚の道に進んでしまいました。
 しかし、大学の時遊びで始めたテニスが意外と面白く、白球会に出会えて良かったと思います。

《 経産省退官時の表彰状 》
 通商産業省(通産省)時代はよく働きました。昨今官僚バッシングが激しく、現役の後輩諸君は気の毒な限りですが、それにもめげず、よく働いてくれていると思います。私の若い頃は、勤務時間が殺人的に長く、給料も安いのは今と同じですが、産業界を始め周りの人が「よく働いてくれて」と褒めてくれたので、「ブタもおだてりゃ木に登る」という例えどおり、機嫌良く働いていたのかもしれません。
 大学時代は、経済学それも経済史の学者になろうと思っていた頃もあったのですが、日本や世界の経済をいつも全体として見据えながらも、やはり自分が何かしら現実の世界に関与して世の中のためになるように改善していきたいと思うようになり、急に一念発起して公務員試験の勉強をやっつけでして、念願の通産省に入れていただきました。
 通産省は一部を除くほとんどの産業を所掌し、国際経済からエネルギー、さらにはそれらを元にしてマクロ経済にまで関与しようという役所でしたので、いつも何かしら刺激的な政策テーマに遭遇しました。こういうのんきな調子で言えるのは事後だからで、その時は、国や産業界の浮沈が双肩にかかっているような気分に浸りながら、何とかしようと必死で考えてもがいていた、と言った方がよいかもしれません。通産省は、他の役所に比べると、所掌が広いだけに対象への関与があまり固定的ではなく、一から自分で処方箋を書いていかなければならないことが多いのです。また、もともとの自分の所掌業務だけでは問題の解決にならないので、人様の取り扱っている業務でも平気でああすべし、こうすべしと提案をしていくことがよくありました。霞ヶ関でインベーダーと言われる所以です。ただ、どのような時でも、私も仲間も、少なくとも国益をそっちのけで行動した事はなかったし、日本経済は自分たちが背負っているのだという青臭い気分でいつも頑張っていたように思います。かくて32年、ブルネイ大使を最後に役人生活を退いた私に下さったのが冒頭の表彰状です。
 現在私は和歌山県知事として、ふるさとの県政の舵取りをしています。その際、夢中で過ごしてきた結果身についた通産省時代の仕事のノウハウがすごく役立っています。何しろ「課題先進県」のような和歌山県です。前例に頼っていて十分なはずがありません。狭い自分の職務を守っていればよいというはずがありません。海図は全部自分たちで描いていかなければなりません。烈々たる使命感も必要でしょう。私だけでなく、県職員全員があの時の通産省の気構えで県民に尽くすよう導いていきたいと思います。

《 紀州藩洋式軍隊の絵図 》
 和歌山県知事になってすぐ県立博物館に見学に行きました。その時この絵を見て私が発した言葉は、「これは奇兵隊ですか。」でした。学芸員の答は「いいえ。これは明治初年の紀州藩の洋式軍隊ですよ。」でした。映画のラストサムライさながらの近代的洋式軍隊がこの和歌山にあったとは。和歌山市でずっと育った我が身ながら余りの不明に驚きつつ私の郷土勉強があらためて始まりました。
 明治になってから紀州藩は御三家の地位を失うのですが、それに落胆しているだけでなくすぐに陸奥宗光などのリードで藩政改革に着手します。もともと廻船の通り道であったのに加え、木材、炭、熊野講などで藩財政は豊かなのですが、加えて藩士の俸禄の10分の9(!)を召し上げて捻出した財力で最新の武器を買い、武士以外からも兵を徴して2万人のプロシャ式の近代軍隊を作り上げてしまいます。当時の新政府の常備軍が合わせて1万3千人くらいと言われていますので、大変な脅威なのです。実はこの改革の推進者の陸奥宗光は、明治近代国家の有りようを維新政府に進言をするのですが、未だ徳川に替わる薩長幕府といった政体のイメージしかない新政府には無視をされてしまいます。そこで陸奥は郷里へ戻り、紀州藩でそれを実現してしまうのです。そうなると新政府にとっては紀州藩は大変な脅威です。そこで紀州藩モデルを新政府全体で採用するので紀州藩も協力してくれという働きかけをし、その結果として私たちが実際の姿として知っている明治近代国家ができたのでした。そもそも明治維新後にでき上がった明治国家の姿と維新の勝者であったはずの薩長の有力者達が幕末に唱えていた国家像が余りにも異なるのは変だと思っていた私ですが、以上の事を理解すると、すべてはすとんと納まりました。以上が明治近代国家の原型は和歌山モデルだと私が主張している所以です。
 以上は、実は岡崎久彦さんの『陸奥宗光とその時代』からの受け売りなのですが、問題は和歌山の子どもであった私達に、上記の事を含む和歌山についての知識を当時の教育委員会はちっとも教えなかったという事です。どこでどういう人生を送るにしろ、故郷の事をよく知っていてそれに誇りを持っている子どもは幸せです。県内の人からよく「和歌山はいっぱい良い所があるのに売り出し方が下手で」ということをお聞きします。しかし、私に言わせると、売り出し方以前の問題として良い所を県民自体が知らないのではないかというのが私の意見です。そこで和歌山の地誌や歴史や偉人がいっぱい簡単に触れられている「わかやま何でも帳」を自分も筆を執って作り、各学校に配ってもらい子ども達に学んでもらっています。併せて大人も知らないのは困ると思って、同じ物を一般書店でも売ってもらっています。皆さん是非お読み下さい。