日本の大店法とミラノの小店法

 日本はどうも競争をして1人が勝ってしまうというより皆が仲良く分け前を分け合うという事をよしとする文化が昔からあって、今もそれがあちこちに残っている国であると思います。
 建設業界に根強かった談合とか、銀行業や運輸業での護送船団方式、中小企業に多く認められているカルテルなどがその例であります。
 しかし、このように皆が仲良くシェアーを分け合うというのは経済に余裕があり、国際競争にも晒されなかった時にはありえても、もはや維持できなくなったのが昨今の情勢です。そこで、違法カルテルや談合は独占禁止法で厳しく摘発され、護送船団方式の法規制はどんどん改められ、企業は厳しい競争を余儀なくされています。

 ちょうど80年代、日本の経済力が全体としてとても強かった頃、それでも競争環境の変化から衰退を余儀なくされそうな業界や企業を守ろうとする動きが日本でもありました。代表的な例は特定の分野には力のある大企業は手を出すな、中小企業の聖域だという中小企業分野調整法とか、中小商店をチェーン展開する大スーパーなどから守ろうとする大規模小売店舗調整法という法律が出来て力を効かせる事になりました。
 こういう法は、経済の厳しい風にもまれている製造業など他の業種やサラリーマンの人々からすると一部の権益だけを守ろうとする天下の悪法であると映るでしょうが、それ以上に不公正な商慣行だとして真っ向から噛みついてきたのが米国です。そういう意味で、貿易摩擦のイシューになったのです。日米構造協議の幕開けです。
 特に大店法はビッグイシューでした。米国では、広い国土を活かしてチェーン店式の大型小売店が日本より先に栄えました、こういう企業が日本に出店しようとすると、大店法に阻まれてできない。それは大店法が悪いということになったのです。
 米国政府は中々したたかですから、これを攻撃すると決めるとあらゆる手を使います。米国が誇る世界向けのメディアに載せて、世界中でがんがん日本を攻撃するのです。消費者の利益を考えると米国の言っていることももっともなこともあり、結局、大店法は改正され、中小商店の利益を守るという色彩はほとんどなくなり、規制は都市計画の観点からのチェックだけになったのですが、日本の当局に都市計画のセンスがなかったので、結局は大型店の出店し放題になっているというのが日本の現状です。

 ということになったのですが、まだ日米が大いにもめていた頃、私はイタリアのミラノにいました。その時通産省でこの問題を担当しているとても優秀な後輩が、「それではヨーロッパはどうなっているのか」という事を調べるために、ミラノに来ました。私は、要請に応じ、イタリアでこういう問題に一番詳しいと思われる学者を探し出し、後輩君と一緒にイタリアの事情を聞きに行きました。
 そうしたら、学者氏は「日本の流通市場は閉鎖的であると世界的に有名だ。アンフェアーなことを続けていないで規制緩和をしたらどうだ」というのです。ところがよくよく詰めて議論をしていくと、日本には大型店の出店規制しか無くて、個人でやっているような店は町のどこにでも出店し放題だというのに対し、イタリアでは大型店はおろか、小さい店でも出店をしようとすると、近隣の既存店の同意を取ってこなくては不可能と言う事が分かったのです。それを我々が指摘すると、学者氏は、あれれと困った顔になりました。日本が閉鎖的ならイタリアは超閉鎖的だからです。
 私が「どうしてあなたは日本の流通市場が閉鎖的だと思ったのですか」と聞いて分かったことは、この学者氏はインテリですからインターナショナルヘラルドトリビューンを毎日隅から隅まで読んでいるのですが、「ヘラトリ」のニュース源は全部米国の新聞ですからそのキャンペーンによって日本市場を閉鎖的と思ったと言う事でした。
 天下のインテリですらこうですから、イタリアの一般の人々は、日本の事を閉鎖的でずる賢く、がめつく儲けている汚い奴と思い込んでいるに違いがありません。
 それ以来、私はこの分かりやすいフレーズ、「日本には大店法しかないが、イタリアには小店法もあるじゃないか」を使って当時勤めていたジェトロを使ってイタリアで大キャンペーンを始めました。また、対ヨーロッパ、アジアなどにもアメリカの言っている主張がいかに普通の相場観を逸脱しているかを言いまくれと本省に対して進言をしました。

 戦い済んで日は暮れて、こういうお話はすっかり過去のものになりました。しかし、今も変わらない慣行があります。それは私たちが権威があると思われるものに書いてあることや、権威があると思いたがる人が言ったことを批判力もなく受け入れ自分の意見にしてしまう事です。昔の朝日新聞の慰安婦の強制連行証言がそうでした。最近も下級審の一裁判官の変な法解釈を、司法の判断は神聖だから文句をつけてはいけないというような考え方をする人も多くいるようです。私たちはすべからく、「ほんまかいな」という気持ちで外界からの刺激にはいつも頭を働かせていないといけません。