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言葉狩り
2015年12月21日
再び百田尚樹さんの「大放言」からなのですが、「そうだ、そうだ。」と思う中に「『言葉狩り』の時代」という所がありました。
昔は普通に使っていた日本語の表現が、差別的だと言うことで次々と使用禁止語になっていっているという話で、百田氏によると、昭和50年代に起きた現象だそうですが、今でも更に激しくなっているように私は思います。
誓って申しますが、私は差別するのは嫌いです。とりわけ障害のある方に差別的な気持ちを持ったり、そう言う表現を使用としたこともありません。しかし、どうもこういう『言葉狩り』はあんまり好きではありません。日本の言語文化が寂しくなっていくような気もしますし、誰かがこれは差別語でいけないのだと言い出すと、それに従わないとその人が差別主義者だと指弾をされるような風潮はどこか空恐ろしいような気がします。一番気に入らないのは、それが本当に差別的な言葉で、障害のある方などを傷付けているのかと言うことを、真面目に考えることなく、皆が唯々諾々とこの『言葉狩り』に従っていることです。
私はテレビ和歌山の広報番組によく出ます。それでその収録をするのですが、それを見張っているというか、監視をしているというか、支援をしてくれているというか、部屋の横にいてくれる担当職員がよく「その言葉は禁止用語です。」と言って注意をしてくれるのです。そう言うことに不注意なことが多い私にとっては、大変有り難いのですが、そう言う職員が私の発言の内容がおかしいという指摘をしてくれたことはありません。言葉にばかり注意がいって、内容は我関せずだったら少し寂しいなとも思います。
ちょっと話は異なりますが、私が就任早々教育委員会の幹部職員と教育問題を議論していて、どうも芳しくない行動をする生徒がいるという話をした時、私が「そういう子は一発張り回してやったら」と言ったら、即座に「とんでもない。そんな事をすると直ちに処分ですよ。」と言われたことがあります。段々と今はそう言う制度になっているという事が分かってきたのですが、その時は、そんな形式的なことばっかり気にしていないで、もっと子ども達を善い方向へ指導してやろうということに情熱を持ったらどうだと少し反発をしたこともありました。少なくとも「一発殴ってやれ。」と言った私と即座に「とんでもない、そんなことをすると処分ですよ。」と言った職員とその時どちらが子どもの教育を熱心に考えていたかという点については、いささか思うこともあります。すべて形だけになって心がないということは、『言葉狩り』と同じだという気がします。
我々は、やはり、気持ちとか心とか情熱とか心意気とかいったものをもっと大事にしないといけないのではないでしょうか。
でも、私はだからといって、あえて放送禁止とされている言葉を使おうとは思いません。障害のある人などが本当にそのような表現によって傷付くならば、その表現は差別用語だと誰かが言い出してマスコミなどが一斉に同調したことによってそう感じるようになったとしても、一人でもそういう傷付く人がいるならば、その表現は使わないでおこうと思います。県庁諸君の見張りにも感謝しています。同様に学校現場で「殴ってよい」とは絶対に言わないようにしようと思います。子どもを思うあまり、つい手が出てしまったということは昔も今もあるかもしれませんが、私のような者が「殴ってよい」と言ったとたんに、サディスティックに生徒を殴る教師が出てこないとも限らないからです。言葉で人の道を説く努力を省略して殴りまくる輩は、やはり教師失格です。
でも、『言葉狩り』とそれを当然のようにみなす人がいっぱいいる世の中は、やはり嫌ですね。
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