「お国のために」と「君死にたまふことなかれ」

 最近新聞で自殺に関するデータが発表されました。全国で13,211人(今年1月から7月まで)と随分多くの人が自ら命を絶っています。
 昨年1年間では、交通事故で亡くなった人が4,117人、自然災害で亡くなった人が94人(行方不明含む)ですから、これは随分多い数字であると思います。特に10代、20代の若い人々の命が自殺によって2,906人も失われています。

 これについて、さる高名な脳科学者がある時こういうことを言っておられました。戦前は、子どもは「皆お国のために頑張れ、お前の命はお前だけのものではないぞ。お国のための命だ。だから粗末にしたらいけないぞ。」と繰り返し、しつけられ、それがすり込みになっていたので、簡単に自ら死んだりしなかったけれど、戦後はそういう教育をしなくなったので、子ども達は命は自分のものだ、だからどう扱っても勝手だろうという考えでいるから、おもしろくなくなったらすぐに死んでしまうんだ。

 私は確かにそうかもしれないなあと思いました。戦前の教育は個々の人にその人の幸せより国家に尽くすことを上位に置き、特に昭和が進むにつれそれが高じて、国家のために命を捨てよと言うことが盛んに言われるようになり、戦争で多くの若い命が失われました。

 それはとても悲しいことですし、繰り返してはならないことですが、特に教育の世界では、自分を大事にすることが一番大切であると言うことばかりが強調されて、子ども達を過度に利己主義的に育ててしまったきらいがあると思います。自分の命なんだから、辛い事、悲しい事、悔しい事があってもう生きていても仕方がないと自分が思ったら、それを自分で捨てて何が悪いという考えを助長してきたようにも思えます。
 もちろん、自分の命だし、自分を高める事はすごく大切で、国家のために、命を投げ出せとは言わない、ましてや戦争へ行って死んで来いとは決して言わないが、自分の命だから捨ててよいという考えにとらわれた人には、是非考えてもらいたい、あなたの命は決してあなただけのものではないぞと。その人の背後にはその人の事を大事に思っているお父さん、お母さんなどの家族がいるし、その人が死んでしまったら、涙してくれる友人がきっといるはずです。息子や娘が亡くなったお母さんやお父さんが悲痛の涙に暮れているのを見るに堪えない気の毒な思いで見ることがしばしばです。更には、職場の人とか地域の人とか、その人に何がしか依存して、その人に期待している人もたくさんいるはずです。もっと言えば、その人が働いて活躍してくれることによって、我が町とか我が県とか我が国に、その発展や繁栄があるはずです。

 和歌山県では、高校生諸君に、立派な人から、その人の若い時の思いや人生の苦労話などを語ってもらって、その諸君がこれから生きていく時の指針にしてもらおうという和歌山未来塾(旧名 きらめき夢トーク)を開いています。数年前の講師に現在スイス大使をしておられる本田悦朗さんが来てくれて、数多くの自身の外国経験を述べ、彼の場合は「日本のために」ですが、自分を超えたもののために尽くす喜びを語ってくれた時、会場の高校生諸君(と私自身も)は感動で涙しました。

 その人の命は自分自身のためではない、自分自身を超えたもののために尽くすことはとても楽しい、若い人々にはそれを知ってもらいたいし、学校の道徳教育や家庭の教えでも子どもたちにそう教えるべきだと思います。「自分を超えたもの」といっても難しく考える必要はありません。家族のために頑張るのもいいし、学校の名誉になって対外試合で全力でプレーするというのもそうだし、友のために協力したり、尽くしてあげるというのも立派にそうです。自分がつまらなくなったり、辛くなって、こんなことなら命を捨ててしまえと思った時、自分の周りに自分が生きていることによって幸せでいられるこんなに多くの人々がいるという事を思い出してほしいと思います。

 日露戦争で、多くの日本人がロシア憎し、ロシアをやっつけろ、そのためにはお国のために死を賭して戦ってこいという好戦気分一色であったとき、与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ」と書きました。
 今日、我々は、おそらく反対の意味で若い人々に「君死にたまふことなかれ」と言わなければならないと思います。