観客民主主義

 政治評論家として高名な篠原文也さんのお話の中に出てきた言葉ですが、本当にそうだなあと思ったので、頭に残りました。
 民主主義の世界では、我々は主権者です。主権者ということは、投票その他の行動として、代表を選び、その人に自らの生活を規定する世を治めることを委託し、その代表がその機能をちゃんと果たしているか、常にチェックするということだと思います。
 それは権利であり、義務であります。何故ならば、その代表が責任を委ねられた政治や行政は、もろにそれを選んだ選挙民の生活を左右してしまうからです。
 私もこうして和歌山県民に選ばれて、和歌山県政をあずかっているのですが、自分の意思決定や差配がどれほど和歌山県の現在と未来を左右し、人々の生活に影響を及ぼしているかと実感しますから、時として重責に慄然とした思いに駆られることもあります。
 県政の中身は多岐にわたっていますが、一見別々のジャンルの別々の問題に見えるようなことが、実は相互に影響していて、あちら立てればこちらが立たないというような事ばかりであります。したがって、何か耳当たりのよい事を唱えたり、実施したりして、人気を博したとしても、その結果別のところで、不都合な現状を耐えがたくなるようなレベルまで発生させているといったようなことがあるのです。
 だから主権者としての選挙民は、いつもこうした全体像を見ながら、自分たちが選んだ人や政党の業績を評価し続けなければなりません。

 しかし、日本で現実に起こっていることはそうとも思えません。山本七平さんの言われるように、空気に支配されて、すぐに政治家や政党がえらい人気を博し、みんながスターを見るように熱狂し、そして時間が経つと、もう飽きたとでも言うように今度は熱狂的に嫌ってしまうというような現象がよく見られます。
 人気を博した政治家や政党の唱える事が、みんなをキャーッと言わせるような事は往々にして起こるけれども、それを実行した時に、世の中がどうなって、ひょっとしたらこんな不都合なことが起こるかもしれないと冷静に分析し、理性的な声を挙げる人は稀であります。

 考えれば、これは、主権者である選挙民が自分たちの政権を託した人々を見る見方ではなく、舞台の上で歌や踊りを演ずるタレントや俳優を見るものの見方でしょう。舞台上を観客とは完全に別個の存在で、人々は見物に飽きたら劇場を出て行き、気の向くまま、また別の人々が演じている劇場に観客として赴くという仕掛けです。
 劇場ならそれでいいでしょう。何がしかのお金を払って、よければ拍手をし、気に入らなければ退席をすればよいのです。退席をしても我々のもとの生活はまったく変わらないからです。

 しかし、現実の政治の世界ではそうはいきません。俳優やタレントの失敗はもろに観客の生活に影響するからです。劇場の外へ出たから自分には関係ないというわけにはいきません。だからすべての観客は、舞台の演出者であるかのように、すべてに責任を持たなければならないのです。
 最近の政治に対する我々は、本人の関わり方を見ていると、まさにこの観客民主主義そのものです。あの人が気に入った、その人が嫌い、あの党が人気、この党ははやりくさし、まさに観客が舞台を見ているが如きです。そういうのは如何なものか。目の前の舞台上のことは、我々全体の生活に繋がることなんだから、好きだの嫌いだのと言ってる前に、全体として、我々は、何を選択しなければならないか、何に責任を持たねばならないか、それを考えなければなりません。しかし、日本では中々そうではありません。選挙民はただの観客です。しかもそういう事を真っ先に提起すべき知識人であるはずのマスコミが率先して観客民主主義を煽っているような気がします。
 その典型的なフレーズは、少し前の政権交代期の選挙の時によく言われ、マスコミなどで拡散した次の言葉です。「〇×党には、そろそろお灸を据えてやらねばならない。」これは観客に徹した人々だけが遠慮なく吐ける言葉ではないでしょうか。観客民主主義にすっかり浸り、余韻に浸りつつ劇場を出てきた観客が目にする光景が、すっかり変わってしまって、廃れ切った現実であったというようなことがあってはなりません。