水産物禁輸 WHO上級委員会敗訴に思う(その2)

 東日本大震災と原発事故に伴う放射能汚染を理由とするEU等の日本製品への不当な輸入制限に対して私がとんでもないことだと思い、政府に対してWTOの紛争解決手続きによって訴えを起こすべきだと迫ったのは、自らのかつての経験からこの問題を多少は勉強していたからであります。
 確か1997年の夏、私は2年間の経済企画庁(調査局内国調査2課長)への出向を終え、生活産業局参事官として通産省に帰って参りました。行革に伴ってできたポストで、何でもあり的な遊撃軍、いささか中途半端な職責でありました。とりあえず、京都で行われる地球環境に関するCOP3の対応で所掌の産業界からどのような協力ないしは犠牲を引き出すかという全省的な仕事に参加したりしていました。
 その私に目を付けたのが、当時法令審査員(局の筆頭課長補佐)をしていた、後の総理秘書官、特許庁長官の宗像直子さんでありまして、局長と図って「皮革の対EU交渉をやれ、EUに押し込まれて、国内産業と産地が大変なことになりそうだ。これをEUを抑えて解決せよ。」という命令を私に出したわけであります。聞けば、しばらく前からEUから関税割当枠の拡大要求が激しく、(私の後任の)前欧州課長と生活用品課長がEUを説得しに行ったもののEUからは要求どおりにしないとWTOに訴えるぞと脅されているとのことでした。
 それは大変だ、えらい難題を仰せつけられたわいといささかびびったのですが、命令とあればいたしかたなしとせざるをえません。宗像さんは、大変な仕事だということはよくわかっているので、考えられる限りの精鋭を集めて皮革プロジェクトチームを作りますからということで、局内から現内閣府政策統括官の赤石浩一さん、現JETROパリ事務所長の片岡進さん、現日本文化用品安全試験所専務理事の渡辺重信さん、現内閣府参事官の伊藤禎則さんら本当の精鋭を部下につけてくれました。
 また現在国際通商法務の世界で大活躍の川合弘造さんがちょうど国際経済課に出向になっていたので、チームに加わってもらいました。強力チームができたのです。

 そこで、皆で問題の分析を行いました。
 皮革は最後までIQ輸入制限が残っていた品目で、もちろんこれはWTOのGATT違反です。これをなんとか守り、色々困難を抱えている業界を守るかが通産省の歴代の担当者の課題でした。
 もちろん明らかなGATT違反ですから、旗色は悪く利害関心国のEUや米国から、散々大きな要求を出されて、苦労してきたのです。
 しかし、日本政府はついに皮革のIQを放棄することとし、GATT上合法のTQに切り替えました。
 TQはある一定量までの輸入は安い一次関税率、それを超えると高い税率を課するというもので、日本政府はそれを導入する時の交渉で、とりあえずTQの一次関税を適用する数量枠は少々少なめに設定するが、以降何年かに1度協議をした上で枠を拡大する約束をEUと交わしたのであります。ところがその後、2度枠を拡大しているのですが、日本の皮革の需要も減少気味で、一次関税枠は圧倒的に未達の状況となりました。EUからは、再び枠拡大の要求が来たのですが、枠が未達のものをさらに拡大することはできないと日本がつっぱねたので、EUとの間で貿易摩擦が起こったのです。担当の通産省では、EUを説得しようと先述の欧州課長と生活用品課長の2人をEU各国に派遣して日本の立場を説明して、理解を得ようとしたのですが、それがEU側に火に油を注ぐ結果となり、とうとうEUからはWTO提訴の動きが出てきて、さあ大変ということで我々のチームの登場となったのです。
 そういう時に大事なのは状況分析と法律論と交渉戦術なのですが、皆でこれを一から勉強することにしました。

 まず第1の状況分析は、日本の皮革産業は、国内で皮を鞣すほか、外国の鞣し革を輸入もして、それを原料として様々な皮革製品を作るといった構造ですが、国内の鞣し工程は既にうんと縮小し、さらに最終製品として輸入される皮革製品も外国製品に負けて日本産の最終製品の生産も減っており、従って原料として輸入される鞣し革も需要がうんと減っているので、これが枠未達の原因だということがわかりました。どうせ未達だからもっと枠が拡大しても同じだという議論は、調子がよくない業界には耐えられないものであり、枠拡大は避けなければなりませんし、それは合理性もあります。
 一方、EU業界は、もっとたくさん輸出したいという気持ちはあるが、そうしてもあまり実益はないと業界の人々は分かっており、ただ、EU官僚の勧めでWTO提訴の要望を出してあわよくば交換条件で何か実利をという状況でした。

 さて、第2の法律論ですが、WTOで勝てるか負けるかを見極めるのが大事であります。日本人は国際的法廷論争にあまり強くないので、WTOに提訴されるというと震え上がって、それを避けようとまず考えるのですが、本当に本件は負ける話かという間を置いて、徹底的に検証しました。省内の考えられるベストメンバーがうんうん勉強し、川合さんのような日本の最高のローファームの助けを借り、東大の若手の国際法学者の意見も聞き、段々と霧の晴れるように分かってきたのは、これは負けない、勝てるということでした。ごく簡単に言うとWTOで争うべきはTQの合法性であり、これは完避、枠拡大の約束はWTOの約定と関係はない。またEUの要求に実益も合理性もない。だからWTOで争っても勝てるということです。
 それでも、パネルと上級委員会で勝ってなんぼの世界ですから、用心をしないといけません。実はこういう話になると、WTOのそのような世界で誰が支配的影響力を持っているかという事になります。当時は米国のジャクソン教授の一派がWTOを席巻しているというのが常識でしたので、私が決断して、少々の資金を役所に出してもらって、ジャクソン派の牙城のニューヨークのローファームに赤石さんたちに相談に行ってもらいました。
 その結論も我々の書面をちょっと補強すれば99.9%勝てるということであったのです。

 第3に法律論でこのように勝てるなら交渉戦術も自ずと変わってきます。これまでEUとやり合ってきた生活用品課長に聞きますと、彼らはEU事務局と主要各国を行脚して、日本の皮革産業は色々な困難な問題を抱えていることを賢察して寛大に対応してくれと言って回ったというのです。言ってみると泣き作戦です。我々行政官は本当に心の中でこういう気持ちを持っているから一生懸命業界のために頑張ろうとしているのですが、それを相手に言って効果があるかどうかということは別問題です。相手が日本人や日本の組織であれば100%とはいえないまでも、ある程度はインパクトはあると思いますが、相手が外国人の場合は、これは100%効果がないと言ってもいいというのが、私が通産省の役人として貿易摩擦などに従事して得た結論です。むしろ逆効果になります。相手は、敵がそういう弱味があるのならもっとかさにかかって攻め立てて実利を挙げようというわけです。現に、EU委員会では、WTO手続きに訴えるぞと言っている産業担当部局、日EUの2国間の通商問題を担当している部局、それに国際経済全体の法務などを担当している部局と、皆が手柄を立てようと群がり寄ってきているとのことでした。
 よし方針変更、法律論で勝てるなら、180度姿勢を変えて、EUを脅しに行こうというのが我々が立てた新たな作戦です。法律のポジションペーパーやTQの実態を説明する資料を用意して、私はブラッセルに乗り込みました。通産省は、事の重大さに鑑み、大臣の通訳などをお願いする第一級の通訳をたかが課長クラスの私に1対1でつけてくれました。
 そうして、私はEU内で、群がり寄ってくる各部局の幹部に強気で言いまくったのです。「この話は法律上日本に何ら非はない。それに実態上もEUに益がない。それでもWTOに訴えるのならどうぞやって下さい。日本はかくかくの理由で絶対に勝つ。我々役人はWTOで負けた奴だと言われたら、将来はないよねえ。」
 段々と聞いているうちに相手の表情が変わり、ついには集まってきていた各部局も次々と逃げてしまい、引っ込みがつかなくなってきた産業当局だけが残りました。当方も日本にとって全く害のない改善を用意して行きましたので、「それで引っ込んだらどうだ」と言ったのですが、さすがに彼らも業界に偉そうに言った手前、その時はすぐには方針変更ができませんでした。その後うんとマグニチュードを下げてこの問題は残り、私の後任の代になって一度だけ申し分け程度にWTOの紛争解決手続きに基づく二国間協議が行われ、もちろんパネルに行くこともなく立ち消えになってしまいました。

 実は、この皮革案件は私にとっては、とても勉強になった案件でした。WTOがどうなっているか。ローファームのボスはどこで幅を利かせているか。外国との交渉で大事なことは何か、等々です。
 だからこそ、私は放射能汚染を口実とするEUの検疫強化による輸入制限の話が舞い込んできた時、日本人として、しなければならないことを思いつき、すぐに行動に移しました。県庁の職員はなんで和歌山県知事のあなたがそんなことまでするのですか、和歌山県のためには何の得にもならないのにと心の中で思っていたと思いますが、黙って私に従ってくれました。私に言わせれば、得にもならなくても、大義のためにはそういうことをするのが和歌山県なのだと示したかったのです。

 問題が当時の責任者による最初のハンドリングミスにより、かくも広く世界中に拡がってしまいましたし、せっかく頑張って提訴したWTOでも今のところはかばかしい成果を挙げられませんでした。まだまだ日本にとって荊の道は続くと思いますが、政府の関係者の皆さんぜひ頑張って下さい。その中でWTOの訴訟については、上記の誰が幅を利かせているかというような類いの問題も、おそらく、日本政府の方は重々ご承知と思いますが、参考になるかもしれないと思って本文を書きました。