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仁坂吉伸の思い

くじらと共に ~捕鯨のまちを訪ねて~

2021年04月19日

 2021年3月21日(日)午前3時30分から午前4時に、BSフジで放送された番組のタイトルです。何百年も前から海と大部分を断崖に囲まれた厳しい生活環境の中で鯨を捕って生きてきた太地町のことを特集しています。他に生きていく術があまりなかったこの町で、歴史上何人かの人々が次々と新しい捕鯨技術を編み出し、町全体で協力して、危険と隣り合わせながら捕獲してきた鯨を、またも町全体で捌いて分け、余すところなく利用することで、町の維持を図ってきた姿や、最近西洋人をはじめ外部の人が乗り込んできて鯨を捕ることは悪だと町の人々を責め立て、時には妨害もされ、辛い思いをしながらそれでも生活のため、鯨捕りを続けざるを得ない状況が描かれていました。一世紀以上前、世界中の海で主として油を採るために鯨を大量に捕獲し、油だけを採って残りは海に捨て、一部の鯨種を絶滅の危機に追い込んだ西洋人の捕獲方法と違って、太地町では地域の生活を守るために必要な鯨だけを捕る一方で、その恵みを神に感謝するために、慰霊碑を建て、手を合わせてきた姿も描かれていました。他の生き物を殺して食べることで我々人間は生きていますが、殺すことが自己目的となり放埒になり、生物の存続を危うくする虞があることも忘れてはなりますまい。ただ、一方、特定の価値観を押しつけて、それに反する生き方に不寛容になるのも、とりわけ、それが度を過ぎるのも考えものであります。番組の中で、私も知らない西洋人で、太地町に住み着いていると紹介された人が「絶滅の危機にまで特定の動物を取り尽くしたら制限をしなければならないが、そうでなければ、何を採ってはいけないとか、誰かが誰かに言うことは間違いだと思う。あの動物は脳が発達しているとかいうことは関係ない。」と述べていたことが印象的でした。

 しかしながら、太地町はイルカの追い込み漁なども含めて、今も鯨を捕って生計を立てていますから、油を採る必要がなくなった途端に鯨を捕るなという考えに変わった、主として西洋人の人々の攻撃の対象になってきました。ひと頃「THE COVE」という短編の記録映画が話題になってからは、ひと際その傾向が強まりました。もっと公平に報じてみようという色々な角度からこの問題に光を当てた映画も作られましたが(八木景子監督の「Behind“THE COVE”~捕鯨問題の謎に迫る~」、佐々木芽生監督の「おクジラさま~ふたつの正義の物語~」)、それで攻撃的な行動が無くなるわけではありませんでした。カエサルも慨嘆したように「人は自分の見たいと思うものだけを見るのだ。」ということかもしれません。攻撃は段々とエスカレートして、大声で批難をするのに留まらず、出漁しようとする漁師さんの車の通行妨害をしたり、入江の網を破壊したりするに至りました。言論の自由は守られなければならないとしても、犯罪行為を見逃すわけにはいかないと、2013年から警察と海上保安庁に現地に人を貼り付けて犯罪行為を取り締まってもらうようにしました。
 そのかいがあってか、最近は、最も強硬な行動に及んでいたシーシェパードが撤退宣言を出して、太地町に来なくなりました。直接的行動をして、センセーショナルな映像を撮ってそれを流して動物愛護に熱心なスポンサーから資金を集めるという図式が、佐々木正明さんのお書きになった「恐怖の環境テロリスト」(新潮新書)という本に赤裸々に語られていましたが、今回撤退したことと、警察の取り締まりによって乱暴なことが出来なくなり、アピールが出来なくなったということと関係があったのでしょうか。
 しかし、その後も鯨やイルカを殺さないでという意見は、国外からも国内からも寄せられています。意見は意見として拝聴はしないといけないのですが、私がその中でどうかなあと思うものが2つあります。

 1つめは、海外の人々が鯨を殺すなと言っている中で、捕鯨を続けているのは日本としてみっともないので止めよという意見です。海外、特に西洋の価値観が正しくて、それに抵触する者は、恥ずかしいというのはいかがなものでしょうか。海外の目ばかり気にするのではなく、日本人として堂々と価値観を主張すれば良いではないかと思うのであります。どこそこの首相がこういった、どこそこの有名俳優がこう言っているという類いで、主権国家の国民として、外国が言うからそうしようとか、外国の権威を借りてきて正当化しようとするのは恥ずかしい考え方ではないかと私は思います。

 2つめは、鯨やイルカなんか食べないでも我々は生きていけるではないかという主張です。我々が生物として生きていくための栄養摂取という観点からは、確かにそうでしょう。でも、我々は、何かを食べたい、食べたいので買い求めたいと考えて、食物に対する需要を生じさせます。現に捕鯨で得られた肉類にはこういう需要があります。あるから捕って生計を立てているのであって、そもそも需要がなければ捕鯨という業はなりたちません。そして何を食べたいか、何を求めたいかは、それぞれの人の選好であって、他人がとやかく言うべきではありません。とやかく言わなければならないのは、それが反社会的行為として違法とされるものだけでしょう。天然記念物の動物を食べたいとかマリファナを吸いたいといったものです。

 それでは何故捕鯨で生活を維持することを是認しなければならないのでしょうか。

 第1に、捕鯨反対を叫ぶ内外の方々に対する反論として、よく使われるのは捕鯨文化を守れという立論です。私も文化を守ることも大事だし、他国の人や特定の人がある地域のある人々の間に文化として定着している価値を攻撃するのは、不遜だと思います。特に食文化に関することは、世界中で、ある文化をよしとする人々が別の文化に従って食生活をしていることを野蛮だとして攻撃することが比較的頻繁に生じていると思います。ソウルオリンピックの時、韓国人は犬を食する国民として攻撃した外国人の観客がいて大騒ぎになりましたが、他人が土足で他人の文化に踏み込んで価値観を押しつけることは野蛮だと思います。私は犬は食べられませんが、世界の中で食べる人がいてもとやかく言う権利は無いということだけは知っています。もっと言えば、私はわりと何でも食べるほうですが、ウサギと馬とカエルは食べたくありません。カエルはまずいと思うからですが、ウサギと馬は生きているそれぞれの姿を想像して食べるのが嫌なのです。でも、食べる人がいても批難などは絶対にしないし、食べる人を嫌おうとも思いません。人は人、自分は自分、それが人の道だと思っています。人は皆自分の生き方を選んで良いはずなのに、LGBTの方々は差別に苦しんでいます。
 鯨を愛する人は鯨を食べるなんて、何という人々だとお思いかも知れませんが、そういう人々とも寛容の心で接するのが、人類が幾多の憎しみや戦争を経つつ、それを避けて何とか折り合いをつけていくために身につけてきた作法ではありませんか。
 少なくとも私は、生きんが為に、ずっと苦労して捕鯨の技術を磨き、人々が力を合わせて、鯨を捕り、食べ、利用して生きてきた、そして心の中でそれを与えてくれた鯨の命と大自然に感謝をしてきた、太地町をはじめとする南紀の文化と、それを支えてきた人々を誇りに思います。そして、それは「鯨と共に生きる」というタイトルで真っ先に日本遺産の1つに認定されています。「外国の」ではなく、「日本の」文化遺産です。

 しかしながら、第2に、鯨問題を思う時、文化の問題以上に私が強調したいのは、昔も今も、人々は生きていかねばならないということであります。昔、油を採るために鯨を大量に殺し尽くした西洋諸国と違い、また、単なるスポーツのためにインドで虎を狩ったイギリスの富豪と違い、太地町の人々は生きていくために、全国からの鯨肉需要に応えて、鯨を捕り生計を立てています。また全世界の動物園、水族館からの需要に応えて、イルカを捕らえて、売って生活を維持しています。そんなに余裕のない生活をこうして維持している、家族を養い、老親を養い、地域社会を支えている漁民の生き方を批難したり、否定したりすることを私はできません。鯨を殺すなと主張する人は、鯨は可愛い、かわいそうと言われますが、生計を立てるため鯨を捕っている漁民の生活と生存は、どうでも良いのでしょうか。
 太地町は鯨、イルカの収入だけで生きているわけではありませんが、この収入だけで相当の収入を得ています。この収入で生きている人がたくさんいます。また、その人達の購買力で回っている地域経済の中で暮らしている人がもっといます。
 欧米の大富豪で捕鯨反対と言っている人の中に、そして、日本で鯨を助けてと言っている人の中に、犯罪まがいの行いをして、捕鯨への反対をアピールしている団体に寄付をしている人がいますが、そういう人で、捕鯨をやめてくれれば漁民の生活費は全て保証します、だからやめてくださいという人を私は寡聞にして知りません。もっとも、そういう人が現れても、誇り高い太地の漁民は断るのではないかと私は思いますが。

 ここで、鯨やイルカをめぐる国際秩序を概略申し述べます。先述のように、先進諸国が鯨類を捕りまくったもので、一部の大型鯨類の絶滅が危惧されるようになりました。そこで世界各国が集まって1948年に国際捕鯨取締条約ができました。時々、単に知らないためか意図的に曲解しているのかは知りませんが、この条約は鯨類を捕ることを禁止する条約だと言われることがありますが、これは鯨資源を利用することを前提にして、その資源を守るために捕鯨に一定のたがをはめようという条約です。1982年に採択された「商業捕鯨モラトリアム」の規定では、一定の期間捕獲を停止して、資源の評価を待ち、それが果たせたらまた商業捕獲を再開するはずでした。ところが、資源が随分回復しても商業捕鯨を認めようとしない国が多数のため、条約の趣旨と違うではないかと日本が脱退したのが2019年であります。そこで部分的に日本近海で商業捕鯨が再開されたのですが(太地町はその面ではマイナーでわずか1隻の捕鯨船しか持っていません)、これはあくまでも大型鯨類をめぐる話で、小型鯨やイルカはそもそも国際捕鯨取締条約の規制対象外であり、各国とも自国の漁業に対する管轄権の行使として、小型鯨、イルカ漁を行っています。日本では種類ごとに水産庁の定める頭数制限のもとに、県知事が所与の権限手続きに基づき、許可を与え、漁業者はこれに従って漁労を行っているのです。もちろん知事の権限は法律によって規定されており、それを逸脱した行為は違法です。
 また、条約ができるときは、各国とも大いに自己主張をしました。あれだけ現在捕鯨反対の米国では、アラスカの先住民が鯨を捕っています。これは先住民生存捕鯨の規定に基づき、先住民族の文化は守るのだという主張で、何とこれによってあの米国が一部で大型鯨類の捕鯨をずっと行ってきたということです。日本は、1986年に「商業捕鯨モラトリアム」に対する異議申立てを取り下げ、その代わり商業捕鯨の制限がかかっている鯨類を資源調査の名目で少数頭捕ってきました。これがいわゆる調査捕鯨で、私の印象ではごまかしているようで何か変な姿でしたが、今は前述のように堂々と商業捕鯨を行っています。また、その間進んだ調査により、一部鯨種はこの制限下に大いに頭数を増やし、このままでは漁業資源を食べ尽くしてしまう虞があるというような研究も発表されています。これらはあくまでも生物資源の減少が懸念される大型鯨類に関することでありまして、太地町の沖合で捕っているような小型鯨類は国際法上の制約もありませんで、それぞれの沿岸国が法規制をしているのです。

 そういう状況のもとに最近、3~4人の比較的若い日本人が県庁前に現れて、毎日数時間スピーカーを使って捕鯨反対を述べておられます。言論の自由とは言うものの、かなりの音量ですから、県庁の諸君の仕事の支障になっていることは事実であろうと思います。時々、大音声になる時があるし、届出の場所を違えて県庁に近づいて演説している時もあって、さすがにそれは違法だろうと警察が注意に行ってくれるようです。直接話をした人から聞くと県外から何時間もかけて来られているようです。コロナの感染持ち込みリスクがありますが、その辺は、他のケースも含め出来るだけ目くじらを立てぬようにしようと県民には呼びかけているところですから何も言えません。この人々は鯨はかわいい、そんなものを殺すのはやめるべきだとよく言っておられます。でも、牛や豚も見ると同じようにかわいい、でも我々は、これを平気で食べています。きちんと殺すから話が違うと言う人もいますが、イルカの追い込み漁でも昔は海の上で血を流して、イルカを処理していたけれど、今は改めて、と殺場で処理をしています。
 自分は動物を一切食べないという人もいるでしょう。しかし、その人は、肉や魚を食べる大多数の人々の生き方を片っ端から抗議に行くでしょうか。また、考えてみると植物だってやはり生きています。収穫というのは人間の都合による生命の簒奪です。現にこれに近い考えを持って極限まで生命を大切にしているインドのジャイナ教徒のような方もいます。そのジャイナ教徒の行者ですら、生物学的には何らかの生命の侵食がなければ生きてはいけないはずです。要するに、このような議論に対して、我々は調和と他人に対する寛容という知恵を身につけたのではありませんか。私は、日本人こそ、古来最もこの寛容という気持ちを大事にしてきた人々だと思うのですが。

 それでもまた我々はこのように鯨を殺すなという方々にも寛容でなければなりません。ただ、やはりどんな時にも礼儀と思いやりという心があって欲しいものだと思います。私がこれはどうかと思ったのは、ある日この人たちがいらっしゃる同じ時刻に県庁前でセレモニーがありました。長い間懸命に努力して財をなした実業家が年をとって引退を考えた時、資産を世話になった人々と社会のために使ってくださいと、県に大変な額の寄付をしてくださったのです。その中には人々の命を守る検診車や障害のある子供を学校に送り届けるスクールバスもありました。その受領式が県庁前広場でありました。鯨の命が大事だという心優しい人ならば、この高齢の実業家の晴れの場くらい見守ってあげるくらいの心はなかったのでしょうか。この方から車のキーを受け取ったり、セレモニーでこの方に表彰状を差し上げたりしているその最中にすぐ近くまで近づいてきて大声を張り上げて、「仁坂知事、鯨を殺すのはやめてください」と何度も叫んだ人が何人もいました。せっかくの儀式が台無しです。主張は主張として、思いやりや配慮というものはないのでしょうか。もし、この人たちに思いやりという気持ちがあったら、長い人生頑張って得た資産を県に寄贈する「はれ」の場を台無しにすることを良しとするでしょうか。また、そもそも鯨を捕ることでようやく生計を立てている漁民に対する思いやりもないのかなあと改めて思います。

 さらに言うと、この方々は毎日県庁前で声を上げておられますが、この方々はどうして生計を立てておられるのでしょうか。鯨を捕ってはじめて生計を維持できている漁民の方々から見ると、きっとうらやましく思うことでしょう。

 この方々の名誉のために言うと、時々聞こえてくる要求の言葉使いは、昔、私が若かった頃、大学紛争の最中聞いたような感じだなあと思われるような単調な連呼の時もありますが、総じて丁寧です。それに、よく「仁坂知事」という名前が出てきて、捕鯨を禁じてくださいと丁寧に要請されています。好意的に解釈すると、この方々は私を見込んで私なら何とかしてくれると信じて言っておられるかもしれません。でも何とかできるでしょうか。
 私も動物を殺すというのは、想像すると好きになれません。(申し訳ないが牛などの肉も美味しくいただいているのにです。)でも、鯨を捕って生きている人々が生計を立てるために行っている行為をどうして批難して止めることができるでしょう。私も鯨はかわいいと思います。しかし、同時に我が和歌山県民の太地町に住んでおられる漁民やその関係者という人間はもっとかわいく、大事に思っています。鯨がかわいそうだから人間はどうでもいいとは絶対に思えません。
 それに、私は知事ですが、全能の神でも独裁国家の独裁者でもありません。法律によって適法に認められる漁を、法律の定める基準と手続きによって許可しなければなりません。法は客観的に公正に執行しなければなりません。法律によって堂々と認められている行為を、私の好き嫌い、独自の価値判断で止められるわけもないのです。「仁坂知事」という呼びかけで始まるお願いを叶えられるわけはないのです。
 言われてもできないんだがなあと思いながら、このところ大変になってきたコロナ対策を始め、しなければいけない仕事に一生懸命取り組んでいます。
 そんな私でも今年になってから、困ったことだと思うことが2度ありました。

 1回目は、2020年12月24日太地町の組合が張っている定置網にミンククジラが入り込んでしまったことでした。このようなことは日本全国で結構頻繁に起こります。大体は漁業に不都合が生じるものですから、設置者が殺処分することによって、網の中から排除されています。その数は2019年をとると全国で114頭を数えているそうです。差し障りがあるといけませんので県名は伏せますが、最多はある県の20頭で、以下、全国色々な地域にまたがっています。ちなみに和歌山県はミンククジラ4頭です。鯨種で言うと、数が多いミンククジラが104頭、ザトウクジラが8頭、イワシクジラが1頭、不明が1頭だそうです。これらは、殺処分の後、肉も利用されていますが、これらを含め法律に従い水産庁に届出をされています。
 しかし、たまには、設置者の判断で、定置網を壊して、鯨を逃がしてあげるということをしたケースもあります。最近では太地町で2020年11月に定置網にかかったザトウクジラを網を壊して逃がしてあげたこともあったそうです。太地町の人達は、日頃は鯨の恵みで生かしてもらっているのだから、必要な量だけは捕りますが、それ以外のものの命まで奪いたくなかったのかもしれません。
 しかし、その結果、網の修繕費としてかなりの費用が、そう豊かでもない彼らの肩にのしかかってきて、誰も助けてはくれません。今回も、命は奪いたくないから、勝手に逃げてくれないかなあという思いで様子を見ていたようですが、かと言って毎回多額の損害を負うことも出来ず、鯨は入口の広い所から段々遠くの逃げにくい一角に入り込んでしまったので、そうなると漁労もできませんからとうとう殺処分をするに至ったとのことです。  
 本件が有名になったのは、いつも付近一帯にドローンを飛ばして上空から撮影をしていた人がいて、その人がネットに常時動画をアップしていたからで、それを見た多くの人が、何とかこの鯨を助けて下さいという投書を、私の所に寄せられました。おそらく仁坂知事なら、地元の組合に命じてそうしてくれると期待したからであろうかと思いますが、私も逃げてくれればいいと思ったし、組合にも事情を聞きに行かせましたが、多大な損害を支払ってでも逃がせという根拠も権限も私にはありません。また、前述のような海の秩序が一般化し、農林水産省の考えもそれを覆すものではない以上、県が自ら乗り出すことも不可能でありました。知事が何でも好きなように出来るものではありません。結局この鯨は殺処分に至ったのですが、そのことを好き好んでしたいと思った人は私も組合の人々も含め誰もいないでしょう。

 次に問題になったのは、2月に太地の漁民の一人が船上で網にかかった魚を仕分けしている時に、網にかかってしまったウミガメを「蹴とばした」のはけしからんという事件でした。たくさんの批難投書がきたので、何事かと調べてみました。公開されている動画を見せてもらったら、確かに網にかかって網から出されたウミガメを一人の漁民が、足で邪険に押しやっているように見えました。網にかかったものを仕分けしているという状況から判断すると、蹴って痛めつけているというよりも、足で、脇に押しやっているように思えましたが、確かに乱暴にそうしているようには見えました。これについては、不必要に動物に辛く当たるのは、そもそも海の恵みと鯨と共に生きてきた太地らしくない行為なので、太地町長を通じて関係者に注意をしてもらいました。しかし、この動画はこのウミガメが漁業活動の後、定置網から離れた所に放流されたところはカットして報じており、地元の人からは、出すのだったら全部出して欲しいという批判もあるようです。
 ただ考えてみたら、これは何故分かったかというと上空のドローンから皆見られているからです。世間ではプライバシーの侵害についてとても神経質で、一般の市民も、報道も「見られている」という要素があるととても反発するし、批判的です。治安の維持や犯人を逮捕するためですら、人の行為を見張るようなことを皆とても嫌います。でも、太地の漁民はそんなプライバシーも認められていないのでしょうか。確かに、こうしてドローンを飛ばしていたから、そしてそれを常時中継し、それを眺めている人がいるから、私の所へ、こんなことが起きているという投書が出来たのでしょう。そして、人が見ていようと、いまいと、ドローンが見張っていようと、生き物を邪険に扱うということは褒められたことではありませんが、一方、こういう風に人のプライバシーなど無きもののごとく配信するということに抵抗を持つ人は、動物の命を助けて下さいと訴える心優しいはずの人の中に一人もいないのでしょうか。少なくともテレビ局なら上空から漁業の現場を映しても良いですかと許可を取りに行くのではないですか。
 また、どうやらこの撮影をいつもしている人は、太地町のどこかに常駐していると思われますが、一体この人の生活はどうなっているのでしょうか。一方は生活のために海に出て生きる糧を得ている時に、生活の心配など何も無さそうな人がドローンでずっと追いかけているというのは、何か違和感を感じます。ひょっとしたら、このドローンを飛ばしている人も、これが佐々木正明さんの「恐怖の環境テロリスト」に書かれている人達のようなビジネスモデルとなっているのでしょうか。
 そうこうしていると、またまた定置網に今度はウミガメが迷い込んだようでありまして、これを助けて下さいという投書が少々ですが来ました。早速現地に聞いてもらうと、こういうことは良くあることで、法律上、ウミガメは殺してはならず、逃がしてあげるべきであるけれど、鯨と違って小さいので別段漁労の障害にもならないので放っておくが、そのうち自発的に出て行ってしまうとのことでありました。万一奥の狭くなったところへ入ってしまうと自力では出られなくなるので、その時は、魚を収穫するとき一番小さくなった部分から取り出すので、ウミガメはその時一緒に出してそのまま放流するということです。

 長々と書いてまいりましたが、国際法上別に禁止はされておらず、法律も認めていて、法律に従った手続きが定められているときに、私はもちろん、何人も自分の好みや主義主張でその手続きに違反して、鯨を捕ることを禁ずることは出来ません。また、その鯨を捕るという行為が、生物種の存続を脅かすものでもなく、昔から伝統的に営々となされていて、それ自体郷土の中に文化として根付いているものであれば、これを脅かすことは、道義上も許されるものではなく、また大都会の豊かな人々には考えられないような過酷な生活環境の中で、人々の需要に応えて、必要な鯨を捕ってようやく生計を立て、家族を養い、そして地域を守っている人達の権利を害することは道徳的に出来るものではないと私は思います。
 そうは言っても、人間のそれぞれの考え方は尊重しなければなりません。鯨を捕ることを嫌う人の考えも、それを圧殺する権利は誰にもありません。と同様に鯨を捕って生活をすることを圧殺する権利も誰にもないと私は思います。人は人、自分は自分、それが人類が築いてきた寛容の精神だと私は思います。それが冒頭に引用したBSフジの番組「くじらと共に ~捕鯨のまちを訪ねて~」の心だったと思います。

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