新型コロナウイルス感染症対策(その66)-コロナと専門家と地方の実務者とオリンピック-

 関西における新型コロナウイルスの大爆発も少し下火になってまいりまして、和歌山でも新規感染者はかなり減って、このところ、せいぜい数人、多くの日で1~2名という日が続くようになりました。退院患者も出ますから、コロナ病床の状況も随分空いてきて、必死で看病にあたってくださっていた病院関係者の負担や、多くの人に検査をしてコロナの陽性者を発見して入院の世話をする保健所システムに連なる保健医療行政に携わる人の苦労もちょっと一息というところです。
 和歌山県の病院がそうして何とか持ちそうだというタイミングで近隣府県のコロナ患者の受け入れを始めたものの、近隣府県も状況が好転していて、今のところ受け入れは空振り状態です。あの最悪期に受け入れができていればよかったのですが、当県もかなり苦しくて、それができなかったのは心苦しく思っています。

 しかし、また緊急事態宣言とまん延防止等重点措置区域の指定は続いており、事実まだまだ感染者は多いし、油断はできない状況だと思います。NHKの報道を見ておりますと、「感染者は減りましたが、病床の逼迫度は続いており引き続き・・・」とずっと続いていたのが、おそらく病院事情が好転して、そう言えなくなったからでしょうが、「感染者は減りましたが、人出はかなり増加しており、引き続き・・・」心配だというアナウンスが流れております。ほかの報道もほとんど一緒ですが、NHKのニュースでは、どこどこの町は、人出が前週比〇%増というようなテロップが画面上に流れてきます。
 すなわち、コロナの感染は、人の動きに比例すると決めてかかっているように思えます。そして、これを後押しするのが、もうテレビ局ごとにほぼ決まっている専門家と称する学者の先生であります。確かに感染症は人から人に移るので人の動きは感染の流行を左右するというのは、別に偉い先生に言ってもらわなくても誰でもわかることです。でも、この一年以上、私は本当にそれだけかと問い続けています。

 ワクチンが効き始めてから、接種が先行したヨーロッパやアメリカでは感染者が目立って減ってきましたので、第四波の変異株爆発を食らった日本と感染状況はそう大差はなくなってきましたが、それまでは同じく医療先進国日本と、欧米では感染者数も死亡者数も文字通りけた違い、中でも優等生のドイツですら日本の15倍という差がありました。これは何だ。普通の人はそう考えます。人流の抑制という点では、自粛要請ぐらいしかできない日本に対し、ヨーロッパ諸国などは徹底していました。戒厳令みたいに外出禁止、破れば警察に逮捕されるという状況だったのです。現在も続いている報道によって拡散される専門家の唱える、人流がコロナ感染の主犯であるとすると、これは全く説明がつきません。当時私は、あの済生会有田病院のコロナ感染と、これに続くだんだんと拡がっていく感染の拡大と必死で闘いながら、何故欧米と日本でこんなに差があるんだと考えてみました。
 そして、ある時、自分が毎日のように指揮命令を発している保健所が、ひょっとしたら、欧米にないのではないかということを思いつきました。そこで知り合いの学者や厚生労働省の知識人に調べてもらったところ、まさにビンゴで、欧米には日本のような意味での保健所もそれを律する感染症法もないことがわかりました。和歌山県はずっと比較的感染者が少ない県であったのですが、報道などでは、よく「人口も少ないものね」とか言われたものでした。でも、私は現場に近いところで必死に指令をしてきたからよくわかるのですが、そんなものではありません。保健医療行政で全力を尽くしてきたからです。そのためには、保健所にばらばらに丸投げでは陽性者の発見も入院調整も十分にできるわけがありませんから、その統合ネットワークを確立し、県の保健医療行政のトップのもとに、指揮命令系統を作り上げ、担当者や保健所が疲弊しないように、周辺業務の肩代わりや応援をするなど、考えつく限りの手を打ってきたのです。また、県の得た実例からわかってきたこの病気の本性からして、すべて入院をさせてケアをしないと命にかかわるとの思いから、今に至るまで全員入院体制を堅持したのですが、そのために、各病院に協力をお願いしてベッド数や人員を割いてもらってきたのです。和歌山県以外にも、コロナとの闘いでうまくいっている所は、みな各知事以下必死になって、毎日こういう努力をしているのを私は知っています。地方の実務家は頑張っているのです。

 ならば、専門家というのなら、真っ先にこういう点に気づき、政府や各自治体にアドバイスを発するのが務めではないかと私は思います。しかし、政府の周りや、マスコミに毎日登場してくる専門家が、人流を抑制せよという言葉以外口に出したのを私はほとんど見た覚えがありません。保健所と地方の保健医療行政がどのように頑張っているか、おそらく研究をされたこともないでしょう。それでも昨年の春などは、こうした保健所を中心とした積極的疫学調査に関しても、政府も専門家も多少は口を出しておられました。
 しかし、それがまたとんでもない間違った情報であったこともあります。昨年の春コロナ大発生の初期、政府や専門家もマスコミも、医療現場が大変だから、何らかの症状があったり発熱しても、37.5度以上の熱が4日間続かなければ、医者に行くな、PCR検査ももちろんするなと言っていたのです。「そんな間違ったことには従えません。」と言って、政府に逆らって受診を勧め、PCR検査をどんどんやったのは和歌山県であります。もちろん、前記の指示はとんでもない誤りですから、専門家もマスコミもいつしか口にしなくなりました。その後専門家は、これに懲りたのか積極的疫学調査に口を出さなくなり、ますます、関心は人流抑制に特化されたようであります。

 有名な西浦先生の80%人流抑制説が一世を風靡しました。私は、別に間違いとは思えませんが、政策を考える際には、そうしたら、世の中どうなるのかということと、ほかの手段はないのか、そういうことを考えてどうすればベストミックスになるかということを考える必要があります。でも、おそらく、専門家の人たちの学問と教養には、感染症の流行と人流というシェーマしかないのではないでしょうか。これが私の邪推です。その理由は、感染症対策学の主流はやはり欧米で、その欧米には感染症法も保健所もないからだというのが私の考えです。 和歌山県では、人流をシャットアウトするときのマイナス、経済のみならず、人々の心や体の健康すら苛む別の脅威を考え、かつ頼りになる保健医療行政の存在をカウントに入れ、ずっと一般的な人流抑制の政策、すなわち不要不急の自粛要請をしてきませんでした。県民の皆さんには、特別のリスクのある行動だけ自粛してもらうように頼んできたのです。これがベストミックスだと思ったからです。その結果がどの程度だったかは、データが証明しています。保健医療行政ではものすごく頑張り、人流抑制をとやかく言わない和歌山県がコロナ抑制にも割合いい成績を上げてきたのです。もっとも、第四波の変異ウイルスにはかなわず、保健医療行政だけでは防ぎきれないと、1か月半ほど県民に一般的な不要不急の外出自粛をお願いしました。これがこの時のベストミックスだと信じたからです。そして、感染がずいぶん減り十分な効果が出たと思いましたので、今や元のミックスに戻しています。

 しかし、尾身分科会会長の言葉などを聞いておりますと、依然として人流抑制ばかり、おそらく他の専門家の方々もこのイマジネーションしかないのでしょう、報道もそればかり。したがって、私は本当にそれだけですかと思うのです。真実は事実やデータが証明してくれます。尾身会長のアドバイスに従っている大都会や国全体のコロナの抑え込みと、地方で保健医療行政を叱咤激励しながら頑張っている各県のコロナ抑え込みとどちらが成績が良いか比べてみたらどうでしょうか。また、コロナと感染症防止対策の専門家なら、政府のワクチン獲得の遅れにつとに警鐘を鳴らしておくべきだったのではないでしょうか。病床確保をもっとしておかないと危ないという助言をしておくべきだったのではないでしょうか。政府の専門家が、ワクチン対策をもっと急げと言ったという報道を聞いた記憶がありません。早く早くと言って騒いでいたのは菅総理と和歌山県のように現場で地道にコロナと闘っている我々実務家です。だからこの小文のタイトルの一部は専門家と地方の実務家なのです。

 その専門家の代表格の尾身分科会会長が「オリンピックをこの状況で開催することは普通はない」と発言して話題になっています。尾身さんは社会的に尊敬されていますので、オリンピック反対を唱えたい一部の国政野党や一部マスコミはこれで大いに勢いづいています。またコロナがなかなか収束しないのでイライラしている多くの国民もやっぱりオリンピックがいけないと思ったかもしれません。しかし、またまた、本当にそうでしょうか。私はオリンピックの本質は世界最高のアスリートの技の競い合いであって、政治や観客やスポンサーや放映権やIOCなどの組織や観光産業やオリンピックブームを当て込んだ経済界などはすべて付随的なものだと思っています。そういう付随的なものを代表とする人々によって、これを目指して頑張ってきたアスリートの機会を奪ってはいけない、感染が怖ければ無観客でも小規模でも何でもよい、我々はいわば明らかな脇役なのだから、賛成、反対などという立場になく、見に行けないのだったらテレビで応援したらよいと思っていまして、そのことは5月10日付けのこの稿で発信しています。商業主義も大いに入って、派手な祭典になったオリンピックを実施することを普通と考える必要もないのではないでしょうか。

 一体どういう立場と考えで尾身さんがオリンピックについて言及されたのか私にはわかりませんが、オリンピック=人流の増加、人流=感染というおよそ偏った学問のかけらだけで懸念されているのだとしたら、「またか」としか思えないのであります。

 私たちは、ブエノスアイレスで東京オリンピックが決まったとき狂喜乱舞しました。コロナで延期が決まった時がっかりしましたが、総理が「来年人類がコロナに打ち勝ったオリンピックとして位置づけられるようなオリンピックにしよう」と言われてその気になりました。その時の想定はコロナが下火になって海外渡航も再開されているという中で、昔のようなあの華やかなオリンピックを人々は期待したと思います。しかし、それは叶いません。だからやめだというのは、あまりにも自分の気持ちしか考えていないことなのではないでしょうか。人が来てうつるかもしれないという科学的な根拠があるなら、それを極小にするようにワクチンをうつなり、ある程度の隔離対策を行えばよい、それでも心配なら選手以外の入国は大いに遠慮してもらったらよい。コロナの感染が心配だという人は、テレビにかじりついていたらよい。ビジネスを当て込んでいた人は諦めたらよい。しかし、世界一を目指して一生懸命努力してきた人の4年に1度の技を競う機会だけは奪わないで上げようではありませんか。それが古代ギリシャに立ち戻った時のオリンピックの原点ではありませんか。戦争の代わりにスポーツで正々堂々と勝負する。その後付け加わってきた商業化、マス化を極限まで削ぎ落したとしても、コロナという人類に襲い掛かった大きな厄災の中でも、アスリートの機会だけは守ることのできた大会を開いたという意味で、東京オリンピックは十分なレジェンドになる大会だと思います。それを日本が成し遂げる、これこそ日本人の誇りです。だから、この小文はコロナと専門家と地方の実務者とオリンピックというタイトルになるのです。