他策なかりしを信ぜんと欲す

 和歌山県の生んだ偉人の一人に陸奥宗光がいます。日清戦争とその後の三国干渉などの国難を処理し、誰がやっても失敗ばかりしていた不平等条約の改正についに成功し、日本の近代外交を確立した人と言ってもよいと思います。このことから外務省の敷地の中で唯一人銅像となって後輩の外交官、外務省職員に暖かいまなざしをそそいでいる人でもあります。
 我々は日本史の教科書において、外務大臣としての陸奥の名に接するのですが、陸奥の維新の志士としての活躍はあんまり知られていません。陸奥は坂本龍馬の懐刀として活躍しますが、おそらく、龍馬の境地に最も近かった人でしょう。さらに海援隊時代の人脈を生かし、維新政府に対して、影響力を行使しています。龍馬の船中八策をもう少し制度化したような明治維新の新制度の原案を、伊藤博文とともに建策しますが、当時の新政府には受け入れられず、郷里和歌山に帰って、まさに建策通りの政体を作り上げます。これによって紀州藩はとんでもなく強大になるのです。それに危機感を持った新政府が、やがてこの新制度をとり入れ、これが我々が日本史で習う明治維新とこれにつづく近代明治日本の原点になるのです。
 さらに、陸奥は、星亨、原敬、中島信行、岡崎邦輔ら明治中期以降日本を背負う人材を養成します。彼らは岡崎を除くと紀州藩出身ではなく、その点でも和歌山県人らしくオープンで公平な人であったと思います。また、将来の日本を見すえて、来たるべき政党による民主主義の種を新しい世代の人々にまいていきました。
 実は陸奥は、西南戦争の時に土佐自由党の反乱に加担してしまって獄につながれるのですが、将来に備えて大いに勉強し、その際ベンサムの「道徳および立法の諸原理序説」を翻訳もしてしまいます。出獄してから欧米に遊学し、独の憲法学者シュタインのもとで学びますが(ドイツ語もできたんですね!)、シュタインもその頭脳を絶讃しています。
 その陸奥の最後の大仕事は日清戦争とその後の三国干渉なども含めた戦後処理でありました。へたをすると、欧米列強の中で赤子の手をひねるように抹殺されかねなかった明治日本の舵取りを誤らなかったその手腕は見事といってもよいでしょう。その経緯を冷徹な分析も踏まえて記したのが彼の著「蹇蹇録(けんけんろく)」でありますが、その中に三国干渉後の国の舵取りについて陸奥が残した言葉がタイトルの「何人をもってこの局に当たらしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す」です。
 私もいつもこのような心境で県政の舵取りをしています。間違いなかったか、少しでもよい方法は他になかったか。思い違いををしていないか、状況判断が誤ってはいなかったか、様々な配慮に欠ける所がなかったか等々いつも思い悩みます。しかし、一生懸命考えて、「他策なかりしを信ぜん」という気持ちで決断をしなければならないのです。

 県では、毎年和歌山県民を勇気付けるとともに、和歌山県の声価を高めるために、郷土が生んだ偉人を顕彰するシンポジウムを開催しています。
 湯川秀樹に始まり、松下幸之助、南方熊楠、そして来年は陸奥宗光をテーマにこのシンポジウムを行おうとしています。皆さん、和歌山県民の誇りを持って陸奥宗光とその時代を勉強しましょう。