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ガラガラポン
2012年07月09日
世の中が何か行き詰まった感が漂って来ると、人々はよく既存の秩序を「いっぺんぶっ壊してみたい」と思う誘惑にかられます。「ガラガラポン」の発想です。古くは明治維新の志士の発想だし、昭和の時代それまでの政党政治に飽き足らず抑圧的な世界秩序を一挙に壊そうとした革新官僚と青年将校の運動もそうでしょう。新しくは長期政権に「一回はお灸を据えなければ」と政権交代が華々しく行われたのもこういった流れに分類されるのかもしれません。道州制などもそういう臭いがします。しかし、私はこういう動きが破壊だけを目的として行われるのなら、それは反対です。「ガラガラポン」には一番大事な「ポン」がないといけない。すなわち、秩序を壊した後作るべき新秩序こそが大事だということです。そうでなければ、破壊の後出来た新しい世の中は前よりももっと悪くなっているかもしれません。本当はよく出来た制度も一緒に皆壊されてしまうだけになる恐れもあります。実は、多くの場合このような「ガラガラ」の運動にはろくな「ポン」がないことが多いのです。実現できそうにもない美辞麗句が踊っているだけのことも多いのです。壊し屋は一見格好はいいのですが、それだけではそんなに値打ちはありません。
日本も和歌山も岐路に立っていることは事実です。そういう時こそ、賢明な和歌山県民は、「ガラガラ」の魅力に惑わされることなく、その結果世の中をどうするというのか、またそれは本当に実現できるのか、その副作用に七転八倒することにならないかをよく考えて、行動することが必要だと思います。その時こういう時代、すべてを適えてくれるものはありません。格好いい「ポン」はないかもしれない。それなら色々な主張、意見のうちどちらがよりましかということを考えるのも大事なのではないでしょうか。
戦前からの政治家、言論人で石橋湛山という人がいます。名声高く、総理大臣になり、これからという時に体を壊して職を辞さざるを得なかった人ですが、その人が戦前、先述の革新官僚と軍部の台頭を前に、改めるべきものもまだまだ意義のある制度も皆一緒に壊し去り、統制経済、東亜新秩序、そして戦争への道を転がっていく日本を見つつ発した言葉に「根本病」というものがあります。
曰く「記者の観るところを以てすれば、日本人の一つの欠点は、余りに根本問題のみに執着する癖だと思う。この根本病患者には二つの弊害が伴う。第一には根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにかかわらず、その眼は常に一つの根本問題にのみ囚われている。第二には根本問題のみに重点を置くが故に、改革を考えうる場合にはその機構の打倒乃至は変改のみに意を用うることになる。そこに危険があるのである。
これは右翼と左翼とに通有した心構えである。左翼の華やかなりし頃は、総ての社会悪を資本主義の余弊に持っていったものだ。この左翼の理論と戦術を拒否しながら、現在の右翼は何時の間にかこれが感化を受けている。資本主義は変改されねばならぬであろう。しかしながら忘れてはならぬことは資本主義の下においても、充分に社会をよりよくする方法が存在する事、そして根本的問題を目がけながら、国民は漸進的努力をたえず払わねばならぬことこれだ」(「改革いじりに空費する勿れ」昭和11年4月25日『東洋経済』社説)。
現代の我々もまた、これを想起して自戒すべきでしょう。
