自分のためか 世のためか

 アダム・スミスの説くところによれば、人は皆自己の利益が一番大きくなるように経済的な行動をし、その結果生ずる自由競争によって「神の見えざる手」が働き社会の利益が一番大きくなるということになっています。だから皆自分のために一生懸命働いて何ら恥じなくてよいのです。
 しかし、世に公務員という名の職業があります。選挙で選ばれる首長や議員も公務員の一種ですから、広い意味で公務員又は公僕です。そういう人は、職務遂行のために多くの特権が与えられています。簡単には職を失わないのは、倒産や社業不振ですぐ職を失う民間の方々とは違います。不正を働かない限り、トップと違う意見を強く主張しても首になることはありません。給料も保証されています。
 それは、公務員が、自分のためではなく、世のため人のために働く仕事だから、後顧の憂いなく全力で働け、という仕掛けなのでしょう。つまり、公務員は自分のことを第一の行動原理にしてはいけないのです。
 公務員が自分のためと思うあまり怪しげな事をしないように、公務員法など厳しい制約もあります。民間の人なら個人の自由と思われることも、汚職などの科で社会的制裁を受けることもあります。
 しかし、私は、このような制約を守っているだけでは公務員としては不十分だと思うのです。ことなかれで過ごしていた方が楽だとか、ひたすら前例だけに頼って世の変化や人々の苦しみを顧みないとか、自己の栄達や保身のために不利な行動を避けるとかは、公務員法などの制約だけで防ぎようがありません。それを防ぐには、まず公務員一人一人が大いに志に燃えるとともに、行政庁ならトップである首長が自己の行動も含め厳しく目を光らせなければなりません。職員が働きが悪いのは首長の責任です。
 選挙で選ばれる首長や議員も同じです。自分のためではなく、世のため人のために働くのが定めです。しかし、最近よく目にするのは、政党が人気をなくした時、政党人が政党色をなくそうとしたり、人気のある政党に移ろうとしたりする姿です。こういう時「自分のためか、世のためか」という言葉が大変大きく響いてきます。この場合目を光らせなければならないのは県民です。